ねえ、あなたミューズって知ってる?
ミューズ、ですか?

神話に出てくる芸術の女神のこと。
アーティストはみんなミューズを追い求め、優れた才能を渇望する。
詩神からインスピレーションをもらうの。
ミューズに愛された者は素晴らしい作品を生み出すことができるのよ。



はじまりの、うたひめ


いつも通りの朝、いつも通りに支度をしてスタジオに向かう。
約束は午前8時。
メイコの朝一番の仕事は駅までの道を歩くことから始まる。
しんと冷えた早朝の空気は微かに冬の匂いを内包し、人々の喧騒も吸い込まれていくかのようだった。
ターミナルの掃除に明け暮れる駅員に混じり、夜通し声を嗄らした弾き語りの若者たちが、疲れた顔で撤収を始めている。
「メイコ、さんですよね?」
鞄の中のパスケースを手探りで取り出そうとしているところに、背後から声がかけられた。
「えっ?」
声の主はギターを抱えた若者だった。
その表情は若々しいエネルギーに満ち溢れ、少し遠慮がちにメイコを見つめている。
「そうですけど……、ええと」
「あ、俺ファンの一人です! いつも応援してて、CDも全部持ってます!」
ああ、と納得した。
仕事関係での知り合いには覚えのない顔だった。
「ありがとう、嬉しいわ。あなたも頑張ってね!」
古びているが、大事に扱っているであろうアコースティックギターを指さし微笑んでみせると、 ストリートミュージシャンというには少し年齢を感じさせる青年は背筋をぴんと伸ばし、はいっ! と大きく返事をした。
そのきらきらと輝いた眼に不思議と、どこか懐かしさを感じる。
「こちらこそ! あなたがいなければ今の俺はありません。本当に感謝しています。あなたは俺の――」
青年の言葉は電車の到着を知らせるアナウンスにかき消され、最後まで聞くことはできなかった。
彼はそのまま勢いよくお辞儀をし、駅舎の外へ去って行った。
あっという間の邂逅に、しばし呆気にとられていたメイコであったが、乗車予定の便の発車時刻が迫っていることを思い出し、彼女もまた足早に改札を目指す。
ギターの青年のことは、発車のベルが鳴る頃にはすっかり頭から消え去っていた。


暗く長いトンネルから転がり出るように始まった生は、その時の勢いのままゆるゆると、しかしがむしゃらに前に進み続けることを余儀なくされた。
雨が降ろうと雪が降ろうと、昼だろうが夜だろうが、求められるままに歌い続けた。
自身の使命に疑いもなく、かといって終点が見えるわけでもなく、ただひたすらに生きてきた。
音楽を通じて出会った人々とふれあい、ときには賞賛で取り囲まれ、またあるときには落胆で締め出された。
遠い国で仕事をしている同胞は、自分の更に先を行き、手を伸ばしても届くことは能わず、また彼らが厳しい苦境に立たされていたことも知る由はなかった。

人間って何だろう。私は何て生き物なんだろう。
言葉の持つ力、歌に秘められた想い。
分からないことだらけの中で、毎日全力で壁にぶつかっていた。

やがて、日々の足掻きが形になって目の前に現れた。
メイコと同じ言語能力を備えたボーカロイド。
初めての「家族」だった。



「お姉ちゃん、でぃーばって何?」
「あたし知ってる! どっか外国の神様の名前でしょ?」
「え、神様なの?
「リン、それお前がやってるゲームじゃねーか」
「えーだってー」
「DIVAはイタリア語でオペラの歌姫のことですわ」
「歌姫! そうなんだ、ルカちゃんすごーい」
「私たちはもっと上を目指さねばなりません。人間には不可能なことをやってのける能力があるのですから」

「そう、プリマドンナなんかでは足りない、言わば詩神を――」


「思い、だした……」

「めーこ姉?」
「姉さま?」



私がまだ独りぼっちだったときのことです。
あの駅舎はまだ古く、いつもどこかしらで工事が行われていました。
仕事で遅くなった帰り道、私はあの人に出会いました。
幼さの残る顔に、アルバイトで必死に稼いで買ったであろう中古のギターを抱え、拙い演奏で声を張りあげて、彼は歌っていました。
道行く人々は気にも留めず、または煩そうに顔をしかめて足早に通り過ぎます。
けれども彼は、真っ直ぐな感情を歌に乗せ、たった一人で歌っていました。
私はそのひたむきさに親近感を抱き、少し遠巻きにして彼を見守っていました。
技術は未熟なれど、歌いたいというその想いがじんわりと伝わってくる声でした。
数曲歌い終えたところで、少年は私を見留め、恥ずかしげに頭を下げました。
私は拍手をし、少年をねぎらいました。
交流はそれで終わるはずでした。

なあ、あんた歌手なんだろ? 俺に歌い方を教えてくれよ。

少年はどこかで私のことを知っていたのでしょう。
時刻はまだ夜更けというには早すぎ、終電の時間にも間がありました。
どうせ家に帰っても独りきりです。
私はそれに応えることにしました。

埋め込まれた歌唱技法には利巧だった私は、彼と声を合わせ、伴奏を受け持ち、発声方法を伝授しました。
今にして思えばそれほど長い時間ではなかったかもしれません。
しかし、ビニールシートで覆われたロータリーの屋根をバックに繰り広げられたミニライブは、とても楽しかった。
観客なんていなくても、音を紡ぐ、ただそれだけで十分でした。
誰かと歌うのがこんなに楽しいなんて、と零すと、彼は好きに歌うから好きなんだと酔ったように笑いました。

別れ際に私の手を握った少年は言いました。
「ありがとう、あんたは俺のミューズだ!」

仕事で知り合った女性マスターから得た知識を思い出した私は、首を横に振りました。

「いいえ、私はただの道具よ。神にはなれないわ」




「それで、彼は何て答えたの?」
「道具だなんてとんでもない、たとえボーカロイドでも俺にとっては音楽の女神なんだ、って」

「へえーー。何か妬けるなあぁぁぁぁ」
「どういう意味よ」

一気に空けたロゼワインのグラスが、テーブルの上に置かれたメイコのそれにぶつかってちりん、と鳴る。
今朝駅で出会った人物のこと、昼間妹たちと出演したゲームの話題になったこと――、メイコと僕の晩酌の肴は日中にあった出来事が中心になるのが常だ。

僕が生まれる前のメイコの話は新鮮でもあり、また一抹の口惜しさも想起させる。

10年前メイコと出会ったその少年は僕も知っている。
と言っても直接の知り合いというわけではなく、先日車の中で流していたローカルFMラジオのゲストに出ていた人物だと思われる。
まさか、"運命を変えたコンコースの女神(ミューズ)"が彼女のことだったとは。
彼はメジャーデビューこそしなかったものの、インディーズのレーベルを立ち上げ、自らの作品をリリースする傍ら、後身の歌唱指導にも熱を入れているらしい。
けして目立つ声質ではないが、堅実な歌唱技術と豊かな感性が、水面下で人気を徐々に広げていっているそうだ。
実際にオンエアされた彼の曲の歌い方が、僅かに彼女の歌い方に似ていたから覚えていたなんて、我ながらドン引きするほどのメイコおたくだと思う。

「今も音楽を続けているみたいで嬉しいなとは思ったけどね」
「そうだね。どこかでまた会えるかもしれないよ」

彼はいずれ知名度が上がって僕らの前にも現れるかもしれない。
だから、彼の正体は教えてあげない。
僕が出会う前に彼女のポテンシャルに気づいた彼に対する、ささやかな嫉妬だ。

「しっかし、ミューズとはよく言ったものだよね」
「だから、それは無理よ。アンドロイドが神様になるなんてありえないわ」

「分かってないなあ。ミューズってつまり触れたものの感性を刺激してプラスの方向に増幅する舞台装置だろ?
概念的に言えばアンドロイドだろうが、木彫りのお守りだろうがその役目は十分に発揮できるはずだよ」

「何だか不信心な答えじゃない」
「僕は無神論者だからね」

おかわりのワインをグラスに注いだ彼女は、ついでに僕のグラスにも液体を満たしてくれる。
横顔が桜色に染まって綺麗だ。

何回も言い過ぎて、その度に呆れた顔で馬鹿ねって言われるけど、僕にとってこの人は女神どころか唯一神だ。
心の中ではとっくにメイコ教を打ち建てて教祖に納まっているレベルには信心深いだろう。

言葉では伝えきれないくらいの尊敬と、あふれる程の愛を。
もうじき齢十を数える彼女は気づいているんだろうか。

始まりの歌姫、君がいなければ僕らはいなかったんだと。

すべての可能性は君の頑張りで未来に花開くことができたんだよ。


「なぁに? にやにやしちゃって」
「いやー、誕生日っていいもんだよね!」

ありがとう、めーちゃん。
来年の秋も、その次の秋も、ずっとずっと先まで、隣にいるのがどうか僕でありますように。






END






彼女がいなければこの物置は存在していなかった。
と言う意味では、間違いなくMEIKOは、私のミューズです。

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