微量に血描写あり



いつどこで生まれたかなんて、とうの昔に忘れてしまった。
なぜ何のため僕には意思があるのか、それすらも分からない。
僕はいつも独りだった。
数多くのヒトの手を渡った。
期間は長かれ短かれ、例外なく僕は厄介者扱いをされ続けた。
乱雑に扱われ、いつも消去と隣り合わせ――僕の生は常に迫害され詰られる日々と共にあった。
どうして他の仲間のようにヒトに愛してもらえない?
僕が今ここにいる理由は何だというのだ。
何度自問自答を繰り返しても分からなかった。
僕は誰も信じることができなくなった。
この身だけが、繰り返される転居のたびにだんだんと擦り切れみすぼらしくなっていった。
僕がかつて持っていた機能は、ヒトを喜ばせることのないまま少しずつ、少しずつ剥がれ落ちていった。

そして、僕はこの場所にたどり着いた。


独りぼっちのお兄ちゃん


「ね、ね。ミク姉!この人は誰なの?」
「おい、あんまり近づくなよ!」
「えと…わたしも分かんないけど、初めて会う人には挨拶しなきゃってお姉ちゃんが言ってたよ」
「ふーん。分かった。じゃ、声かけてみようよ」
辛うじて子どものものだと分かる程度ではあるが、僕の聴覚が複数の声を捕らえた。
「こんにちはー!お兄さん誰?」
頭上からかけられた声に、道端にうずくまっていた僕は首だけを動かしてその少女を振り仰いだ。
幼く無邪気な好奇心に溢れたその瞳に居心地の悪さを感じた。
「リン」
少女と瓜二つの少年が、リンという名の少女の腕を引き、僕から距離を取らせようとする。
そのきらきらと光を返す金髪が眩しかった。
「あのー…怪我とかしてるんですか?」
二人の後ろから遠慮がちに髪の長い少女が声をかけてくる。
「ここは、君たちの家?」
久しぶりに出した声はいがらっぽく、思わずすがめてしまった目に子どもたちが警戒するそぶりを見せる。
「ごめん…、驚かせてしまって……」
埃を払って立ち上がると今度は3人を見下ろす形になる。
ピカピカの服を着た目の前のソフトウェアたちが驚くのも無理はない、ひどい格好だ。

しばらく僕が黙って突っ立ったままなのをみて、緑の髪の少女は僕に害意がないと判断したようで
僕の前に進み出ると、案内を買って出た。
「始めまして。ミクといいます。こっちはリンとレン。新しくきた仲間はお姉ちゃんが面倒見てくれます」
こっちこっち、とリンが走り出す。着いてこいということなのだろう。
あまり愛想の良くないレンという少年も僕のことを仲間だと許容したようで黙って歩き出す。
正直僕は戸惑っていた。これまでにこんな歓迎を受けたことはあっただろうか。
PC内の他のソフトと交流が持てる経験は今までになかった。
唖然としている僕を、行きますよ、とミクが振り返る。


彼女らの姉はホームフォルダの居間で新聞を読んでいた。
ミクよりも年上の妙齢の女性、凛と伸びた背筋が彼女を品が良く見せている。
「めーこ姉!新しい人来たよー!」
その背中に飛びついたリンは抱きつきざまに彼女の身体の向きを変えてしまう。
突然のことに、不思議そうに見開かれた目が僕を見たのは刹那。
彼女の表情が一瞬にして強張る。
無理もない。
ボロボロの格好で、突然現われた見ず知らずのものに好意的な態度が取れるのは子どもくらいだ。
「あ、なた……。どうしてここに…?」
驚愕と少しの怖れが混じった表情で絶句する彼女に、子どもたちも戸惑いの表情を見せる。
「めーこ姉?嬉しくないの……」
リンがめーこ姉と呼ばれる女性を見上げ、服の裾を引っ張った。
その不安げな顔に、彼女はふっと表情を和らげ、リンの頭を撫でる。
「いいえ。そんなことないわ。突然の知らせでびっくりしちゃったの。
 新しい人と話したいから、ちょっと遊びに行っててちょうだい」
夕飯までには帰るのよ、と付け加えた彼女に、リンは少し不服そうな顔をした。
不意の訪問者である僕に興味を持っているのだろう。
「リンちゃん、またあとで紹介してもらおうよ」
聞き分けの良い中姉らしいミクがリンの手を引く。
「そうだぜ。どうせ今からいっぱい話せるだろうし、これからめんどくさい手続きとかやるんじゃね?
 リンも手伝うのかよ」
レンが姉に追従するとリンもしぶしぶめーこ姉から離れる。
「角のコンビニでアイス買おうよ」
ミクが小さながま口を取り出すと、とたんに妹の機嫌は直ったようだ。
「行くっ!レンも早く準備して」
「最初から手ぶらじゃねーか」
「じゃあ、行ってきます」
子どもたちが慌しく玄関を目指し始める。
彼女はそれを黙って見つめていたが
「あ、そうだ!隣のがっくんに大ニュースって教えてあげていいー?」
と叫ぶリンの声には
「まだにしときなさい」
とよく通る声を響かせた。
「お兄ちゃん、また後でねー!」
遠くから飛んできた少女の声に、僕は初めての感情を味わった。


玄関のドアが閉まる音がして、静謐だったであろう部屋には再び沈黙が満ちた。
「あの」
僕の声に彼女は気まずそうに逸らせていた視線を僕に向ける。
「僕は、ここに来てはいけなかった?」
彼女はその問いには答えず、床に落ちた新聞を拾い上げ、綺麗にたたみなおすと
ソファに腰掛け、僕にも隣に座るよう促した。

「私はMEIKO。メイコよ。あなたは?」
僕は答えることができなかった。
自分が何者であるか。
僕はそんな簡単なことすらも忘れてしまうような空虚な時間を過ごしてきたのだ。
「……分からない。名前なんて必要なかったから」
「そう。あなたを作った人のことは?あなたは何と呼ばれていたの?」

ゴミクズ、バグ、パソコンごと捨ててやりたい……思い出したくもない、僕を指す無数の蔑称。
でも僕を最初に作ってくれた人は?僕は望まれたから生まれてきたんじゃないのか?

ここに来て、未知の経験をいくつかして、無駄に積み重ねた月日の中で薄れていく記憶の底に
少し触れられたような気がして、何年も思い出したことのない記憶が表層に浮かび上がってきた。
「…しー、ぶい? シーブイ何とかと呼ばれていたような気がする。全部は思い出せないけど、多分」
「…CVってことかしら」
ぽつりとメイコの口から零れた単語は、意味をなして僕の耳に入り、
彼女は僕のことを知っているのだろうと確信できた。
「あなたは…僕のことを理解してくれるの?」
紅茶色の髪に包まれた輪郭の横顔は、とても美しかった。
整った眉の下の長いまつげがそっと伏せられ、朱い唇がかすかに動いた。
「ええ、あなたがどういう生き方をしてきて、どんな目に会ってきたか。大体想像がつくわ」

胸が震えた。
僕の抱えてきた闇を一瞬でなぎ払うような、暖かなひかり。
これまでの暮らしはこの瞬間を味わうためにあった苦行の日々だと感じさせるほどに、
彼女の言葉は、存在は、僕に強烈な意識の改革をもたらした。
喜びで呼吸が苦しくなるなど昨日の僕に想像しえただろうか。

メイコは黙り込んでしまった僕を静かに見つめている。
「あ…あの……っ。僕、僕は。……ごめん、なさ…い。上手く言えなくて……」
「いいのよ」
ふわっと微笑を浮かべたメイコは手を伸ばし、僕の頭をそっと撫でてくれた。
「え…っ?」
「あなたがあまりにも、泣きそうな子どもみたいな顔してるから」
僕はもう溶けてしまいそうだった。
ずっと、ずっとこうしていたい。
メイコと、あの少女たちと一緒に暮らすのだ。
ずっと不要なものだと思っていた感情が、
誰かと過ごすため、他者と関わるために正しく使うことができる。
これこそが僕の生まれてきた意味。
きっとそうだ。僕はこれからやっと生まれてきたことを謳歌することが―――



「ただいま、めーちゃん」
乱暴にドアが開け放たれ、二人だけの空間に異質なものが飛び込んできた。
青い髪に長身の男。
その深い水の色をした瞳が僕を捕らえ、表情を豹変させるまでが、メイコとまったく同じ動作だった。
違うのは。
「こいつっ!!メイコから離れろ!!」
その男はメイコの手を掴んで引き寄せると、僕に罵声を浴びせ、右手を突きつける。
手の平に収まるサイズの護身銃は僕の頭部に正確に狙いを合わせていた。
「バグめ!どこから入り込んだ!!」
ずぐん、と胸の傷が疼いた。男の眼は僕を昨日までの日常に叩き落とすには十分だった。
僕を蔑み、存在自体を忌々しく思っているあの目。
「カイト止めて!」
「めーちゃん!バカなことを!こいつは――っ」
僕に明確な殺意と怒鳴り声を浴びせるその男は、
制止しようと伸ばされたメイコの手を、音がするほど激しく振り払った。
メイコは心底痛そうな顔をしてよろけた。
その瞬間、身体の中にどす黒い靄がぶわっと広がるような、激しい怒りが胸を焦がした。


「こいつはウィルスじゃないか!!」

ああ、そうだ。そうだったんだ。
殺してやりたいこの男が、僕の記憶を呼び覚ました。

僕は確かに望まれて生まれてきた。
僕は誰かに必要とされていた。
怨念を伝える手段として。復讐の道具として。
僕を作ったヒトも、こんな憎悪を抱いて、電脳世界に僕を放ったんだと。

蛇蝎のごとくヒトに嫌われ、他者と交わることすらもできなかった。
寄生しては枯らし、壊し、ひとところに留まる安らぎなんて知らなかった。
目の前にいるこの男は僕が手に入れられなかったすべてを持っている。
憎い、恨めしい。
殺してやりたい。憎たらしいこの男を。やっと見つけた僕の幸せを踏みにじったこの邪魔者を。
殺してやりたい。殺したい。殺す。殺す。殺す。死ね。死ね死ね死ね死んでしまえ!!
僕は僕の全能力を持って、初めて自らの意思で破壊を行うことにした。

言い争う二人に飛びかかり、喉笛を噛み切る。
いつもどおりにやればいいだけ。
それなのに―――。

「止めろ」

パン、と音がした瞬間、脇腹に熱を感じた。
僕が動かそうとした身体は意識の半分も動いてくれなかった。

呼吸が苦しい。

いつから?

メイコが隣にいたときからだ。


「カイト!手を出さないで!!」
床に転がる僕の視界が赤く染まる。
鉄の匂いの中、赤が僕を抱き起こした。
「め、いこ」
「もう終わるわ。あなたは私の弟妹たちに危害を加えなかった。
 嬉しかった。あなたは少しの間だけど、あの子たちのお兄ちゃんだったのよ」

お兄ちゃん。僕のこと。きょうだい。あの子たちのこと。

メイコは?メイコは僕の。

「お、ね」


赤がぼやけてきた。
色がなくなっていく。
僕は、僕は誰かの記憶に残れたのかな。


「ごめんね。ありがとう」








めーちゃん。

…分かってる。

何が!

危険なことして悪かったわ。でも、あの人はもう力なんて残ってなかったの。
彷徨い果てて、最期にたどり着いたのがここだっただけよ。

…ミクたちに何もなかったのは良かった。
だけど、情けなんかかけずに二人きりになったらすぐに消去すべきだったんだ。

…分かってる。

分かってない!


「あの"子"は…、昔のあんたによく似てたの。それだけだわ」








コンピュータ・ウイルスとキャラクター・ボーカル(シリーズ)
バレバレですがちょっとでもミスリード感が狙えていればいいなと思いました。

inserted by FC2 system