雨の日が好きだ。
絶え間ない雑音と裏腹に穏やかな内心。
雨音は僕を包み込み、うつらうつらと思考に浸る幸せを噛み締める、留守番にはお誂え向きのシチュエーション。
何の変哲もない長月の午後。

僕の生まれた故郷では冬になると音が消える。
白く閉ざされた世界で絶え間なく降り積もる雪は、恐ろしくて、残酷で、とてもきれいだった。
すべてが一色に塗りつぶされた庭で、僕が出す足音も、息遣いも、声も、あのさらさらした冷たさに吸い込まれていく感覚が異質で、 いつものように音が柔らかく響くレコーディングルームに足早に戻ろうとすると、ラボの研究員に笑われた。
曰く、プロトのKAITOも同じような反応だったと。
僕には全く記憶がないが、プレティーンのボディだった僕とメイコは初めは雪に興味を示すものの、 好奇心を開花させていくメイコに比べ消極的だった僕は、すぐに部屋に戻りたがりべそをかいていたらしい。
今頃はスタジオでのびやかな歌声を響かせているであろう彼女にもおそらくその記憶は継承されていまい。
けれども、見たこともない幼い少女の弾んだ笑い声は容易に脳裏に浮かべることができた。
きっと毎日食卓で見せてくれる彼女の表情にそっくりだろうから。


「姉さま?」
微睡みを断ち切ったリビングのドアがたてるキィ、という僅かな軋みの他にルカの気配は感じられなかった。
煌びやかな容姿とは裏腹に派手な立ち振る舞いは好まない、そういう娘だ。
抑揚に乏しい口調に、彼女は不機嫌なのかと初対面のスタッフが目くばせする光景は何度も目にした。
その語尾がほんの少し期待に弾んでいるのが分かるのは僕くらいなものだと思う。
それは彼女が先輩に向ける恭敬と、僕が愛しい人に向ける慕情とが些か似た色をしているからだ。

「めーちゃんは留守だよ」
「……カイトさんだけですのね」
水彩筆を一刷毛滑らせた程度の”落胆”を滲ませ、僕になんの興味も持たない瞳で部屋を一瞥し、彼女は帰り支度を始めようとしていた。
ルカはメイコを「姉さま」と熱っぽく称え、僕を「カイトさん」と簡潔に呼ぶ。
数か月も音沙汰がないと思ったら、急に訪ねてきて挨拶もそこそこに防音室に丸一日籠ったのち 居間のソファーで昏々と眠り続けるような風変わりな少女。
同じCVシリーズの先輩に当たる少年少女達のことは「ハツネ」「カガミネ」と短く呼び捨てにするのみ。
リンとレンの区別はどうつけているのか僕は知らなかった。
一度冗談めかして、僕のことは兄さんと呼んでくれないの、と問うたことがあるが、 彼女はいつも通り気だるげな低い声で、キョウダイがすべてとは限りませんわ、と面倒そうに答えた。
第一、と桜色の唇がかすかに動く。わたくしと貴方、どっちが年上かわかりませんもの、と。
そのハスキーボイスは意外にも細く、アダルティなイメージの巡音ルカの中でもミステリアスの側面が強い少女であることを匂わせた。
設定年齢は公式には二十歳。
しかし、少女だ。
少なくとも僕にとっては。

年齢設定が存在しない僕は、自身のことを二十代だと思っている。
少なくとも十代でない…どころか二十代半ば、あるいは後半にさえ思えることもある。
おかしなことに、まだ自我がはっきりしない生まれたばかりの頃、 それも幼児のように些細なことで涙を零していた未熟な時期すら僕は自分を成人だと感じていた。
突き詰めて考えると長くなる。
根底にあるのが、僕という個が存在し始めた瞬間からすでにそこに居た、同型のあの人に因する思慕と恋慕だというのは間違いない。
真っ白で雛鳥のような僕を慈しんでくれた彼女への甘え、傾倒。
同時に僕が彼女を護りたい、信頼が欲しいという渇望。
メイコは僕のすべてだ。僕の持てるすべてをかけて愛しぬきたいただ一人のひと。
彼女もまた僕と同じく年齢不確定型であるが、時に幼く無邪気で、またある時には艶のある包容力で僕を翻弄する。
その度に僕自身の年齢も戯曲のようにめまぐるしく変化しているのだろう。


話が大幅に脱線した。
CVシリーズの最新型であるルカは、先発である僕らのことを同僚に近い形でとらえているらしい。
ただし子どもに対してはたとえ先輩であっても横並び(もしくは下)目線、と。
メイコのことは敬愛を込めての”姉さま”らしい。

姉さまが本当の姉さまだったらいいのに。
(人間のように血を分けた姉妹であれば、より深い絆が芽生えるとでも言いたいのだろうか。)
ぽろっと零したその言葉に、めーちゃんは君の姉さんで間違いないよ、と返すと、クールな彼女は面食らったように目を見開き、戸惑ったような泣き出しそうな表情で、 一言、そう、とだけ呟き去って行った。
少女の胸の内は僕には分からなかった。

雨はまだ降り続く。
灰色の空のどこからこんなに水滴が落ちてくるのか。
晴れた空の色を忘れてしまうほど、雲は厚く低く垂れこめ視界を狭めている。
雨音以外が耳に入ってこないのに今更ながら気づかされ、急に背筋を悪寒が駆け抜けていった。
雨が止まない限り、僕は一人でこの部屋で膝を抱えていないといけない呪いがかかってしまったのではないか。


きっとこの儘。ずうっと。
誰も僕に気づかない。
誰も僕を見ない。
待ち人は。
永遠に。
来ない。
なぜ?
嘘!

否?
違う!
やめろ。
馬鹿な。
あの人は。
僕を忘れてない。
彼女は僕を信じてる。
何があろうと。ずうっと。


「め、いこ」



「カイト!」



「…あれ?」
目を開けると、薄闇が起きぬけの瞳に優しく、しかし覚醒しきる前に頭上に降ってきた布地が再度視界を遮る。
柔らかいタオルが肩や半袖のシャツから伸びた腕に触れ、その暖かさが却って身震いを引き起こした。
忙しない音を立ててメイコが窓を閉めたことで、ざあざあと草木を叩く雨音が遠くなる。
髪に水滴を乗せたままのメイコは取るものもとりあえず、部屋にふき込んだ雨に濡れた僕とフローリングにタオルを宛がってくれたらしい。
ニスで光るフローリングには水たまりが広がり、椅子で眠りこけていた僕の左半身も情けなく風雨にさらされていた。
「あ…ごめんっ!すぐ片づけるから!」
大判のタオルから抜け出そうともぞもぞ身を捩ると、貼り付くシャツの冷たさに肌が粟立つ。
「わっ!?」
立ち上がろうとしたところで、メイコが正面からぶつかってきたため再度椅子に腰を落ち着けるはめになる。
タオルの上から抱きしめられた形だ。
「何やってんのよ!」
「あ、ご、ごめ…」
「違う!調子悪いなら何で出掛けに言わないの!?」
「えと、あの…ちが」
いきなり頬を両手で挟まれてぎょっとした。


まだ寝ぼけまなこなのか、それとも意識が朦朧としているのか、どちらにせよ反応が鈍い。
帰りがけにルカに会わなければ買い物に寄ってから帰宅するつもりだった。
写真集のロケでしばらく日本を離れていたらしい、リゾート土産を渡しに来た後輩は、いつものように奥ゆかしく、しかし親しみを込めて私に懐いてきた。
妹のように可愛い、というか妹の一人であるのだけれど、彼女は私たちと同居したいと言い出したことはなく、どこか一線を引き続けている。
それは彼女が私たちに馴染まないのではなく、彼女のポリシーなのだと今では分かっているのだけれど。
「姉さま。カイトさんが沈みそうですわ」
口数が少ないルカはしばしば要点をまとめすぎて言葉足らずになる傾向がある。
それはまるで詩、もしくは予言のようで。
「沈む?」
「ええ。早くお帰りになって」
ルカはうちに寄ってきたような口ぶりだが、飛行機を降りてから真っ直ぐ私のところに来たと言っていた。
最後に家を出た私を玄関先まで見送ってくれたカイトは普段と特に変わった様子はなかったように思えるのだけれど。
「姉さまの携帯に繋がらなかったので、カイトさんに姉さまの居場所を聞いたんですの。カイトさんは自宅にいると言っていましたが、雨の音がやけに大きくて」
ルカに礼を言って、帰宅してみるとご覧の有り様だった。
大きく開け放した窓からふき込む雨はリビングを汚し、酷い散らかりようだった。
窓際の椅子に掛け、ぴくりとも動かないカイトを見て血の気が引いた。
大声で呼びかけると彼は僅かに眉を顰め、それを視界の隅に入れつつバスルームに飛び込みタオルを引っ掴み、そして今に至る。
強張った頬に触れた私の手も負けず劣らず冷え切っていたのだけれども。
「めーちゃん、ごめん。ちょっとぼーっとしてて」
ふにゃっと笑ってみせる能天気さに少しむっとすれども、無事でよかったことに変わりはない。
「風邪ひくから、早くシャワー浴びて着替えてきなさい」
「ううん、僕が責任持って片づけるから」
いいから、と言いかけたところで、タオルの中から伸びた腕が私を抱き寄せ、掠めるように唇を重ねられた。
「めーちゃんあったかい」
首筋に埋められた頬も、包みこむ腕も、一瞬触れた唇も普段の彼からは想像がつかないほど冷たかった。
私の経験上すぐに身体を温めなければ、今夜か遅くとも明け方には高熱を引きおこす確率が高い。
「駄目よ。すぐにバスルームに行って。私も後で行くからお湯張っといて」
「あーじゃあさ」
「一緒に入るっていうのは却下」
「えぇー」
放っておくとなんだかんだ理由をつけてここでくだを巻き続けるのは彼の常套手段だ。
はいはい、といなしながらタオルに包んだまま背中を押し続け部屋から追い出す。
急いで片づけて着替えないと私も風邪をひいてしまう。
不満たっぷりに部屋に着替えを取りに行くカイトを尻目にドアを閉め……ようとしたところで低い声が追いかけてきた。


「僕はさ、雪も雨も大嫌いだよ」

苦々しく吐き捨てられたその言葉に、私は思わずぎくりと身を強張らせる。
足音が小さくなり、彼の部屋の扉が閉まる音がするまで、私はぼんやりとドアノブを握りしめたまま立っていた。
窓際の椅子の上には、電池が切れた携帯電話がひとつ。
主の意に従うように頑なに座り続けていた。











未だかつてない投げっぱなしジャーマン
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