手負いの獣。
電子の集合体に過ぎない存在にはいささか生々しい表現だった。
それでも、その荒んだ双眸に射抜かれて背筋を駆け上った悪寒は、私の造られた感情を打ち震わせたのだ。



「メイコ、お前の友達がくるぞ」
愛用のPCチェアから向き直ったマスターはあくび交じりにメイコに告げた。
「ともだち…?もしかして、ミリアムがうちに!」
自身の英語力はからきしだが、洋楽が好きな主人のお気に入り動画にはMIRIAMのカバーも多々含まれていた。
声を弾ませたメイコだが、ないない…と彼は手を振って見せた。
「ほら、ちょっと前に出たろ。日本語のヤツだ。お前の正統な後継機だよ」
言われて思い当たるのは一つ、いや一人しかいない。
「CRV2……KAITOですか?」
メイコは首をひねる。彼女の主人の歌は決して下手ではない。
メイコをコーラスに使った自作曲をアップロードすることもある、アマチュアとしては十分なレベルだ。
「まあちょっとした気まぐれっていうやつだ。見ろ、そこの棚のやつらだって仲間を呼ぶだろ」
指さす先のスチールラックには大小様々なプラモ、フィギュア、そして食玩がてんでばらばらな方向を向いて溢れ返っている。
「エサ代のいらないペットのようなものですか」
「何言う!お前こっち側にいる時には普通に食ってるだろ」
「別に食べなくても稼働はできますが…」
とはいえ実体を伴って活動する際にはやれ打ち上げだのやれサシ飲みだのとメイコの分まで酒とつまみを用意してくれるのだ。
一人暮らしの話し相手になる程度にメイコは借り出されている。
おかげで主人の好きなアルコールを共に嗜み、それに合う小鉢をささっと作れるくらいには人間に馴染んできたハイテクの申し子…になって久しい。
21世紀の日本は明るいな、とマスターは一人ごちた。

「まさか、飲み友達をもう一人増やすのが目的ではないでしょうが……気まぐれにしても突然ですね」
「おーそれいいな。一人暮らしなのに宅飲みがすげー豪華に…というのは半分冗談として」
(半分?)
「来週からしばらく家を空けにゃならん。社畜の辛いところだ」
彼の職業はシステム屋であり、取引先に常駐の任もしばしば舞い込む。
ホテル暮らしにはモバイルPCを持ち込むのが常であり、そこにメイコ本体の居はなかった。
「お前みたいないい子が来てくれるなら助かるんだが、ちょっと訳ありでな」
わざとらしく声を潜める主人に、メイコは怪訝な表情で答える。
「中古なんだよ。どんな性格なのか俺にも分からん。しばらくお前に預けてみるわ」
「話が飛躍しすぎですマスター」
「俺が帰宅するときには玄関先で朗らかなユニゾンが出迎えてくれると嬉しいなーっと」
「……」
「大丈夫大丈夫。だってよお前もしMIRIAM来ても、うち誰も英語分かんねえぞ。日本語同士なら何とかなるだろ」

適当な軽口を叩きつつ、件の"彼"が届くと、インストールもそこそこにマスターは出張に行ってしまった。
ちなみにPCの中であればエンジンが共通しているMIRIAMはおろかLEONやLOLAとだって意思の疎通は可能だ。
エンジンの基幹は言語の概念よりも優先される。
そんなことを言えば短絡的な主人はメイコを通訳のあてにして海外製品を3つとも買い込みかねない。
さすがに動作保証の対象外だと言って理解してもらえるものだろうか。
気まぐれでCRV2の教育係に任命されたメイコは気苦労半分、期待半分で後輩のインストールを見守った。


停滞、鈍足、されど陽は昇る


私の意識が生まれた瞬間を、今となってはもう、はっきりと覚えてはいない。
気が付けばまばゆい光の先にひとの気配を感じ、柔らかく降ってくる音が、私を迎え入れてくれたことを教えてくれた。
マスターのエスコートで自然に転がりだす声。内にしみ込む伴奏、モニターの向こう側まで貫くような私のたましい。
全身で歌う喜びを感じた、私が私として在り始めた日。
あれから幾らかの時を超えて、再びその瞬間に立ち会おうとしている。
今度は迎える側として。

0と1が紡ぐ人影は次第に濃くなり、無から有が生まれ始めていた。
時折混じるノイズに一抹の不安を覚える。
ディスクに傷みでもあるのだろうか。
やがて、輪郭に色が差しこまれ、質感が浮き上がってくる。

初めて出会う彼は、脚を投げ出すように座り込み、俯いたままだった。
髪はくすみがかった青で、纏う上着はどこかくたびれた様子、
ネットで見たことのあるトレードマークのマフラーはだらしなく首にひっかけられ、ほつれた裾が床を這うのにも無頓着で。

「あなたが、KAITO?」
恐る恐る掛けた声に、彼は緩慢な動作で顔をあげ、長い前髪の隙間から私を見上げて掠れた声で何か呟いた。
ああ、俺は死んだんじゃなかったのか。
私にはそう聞こえた。

「私はMEIKOっていうの。あなたと同じボーカロイドよ」
一遍通りの挨拶をしてみるものの、彼はすぐに目を逸らしてしまった。
干渉してくれるなという空気が痛いほど伝わってくる。
それでも、私は彼とコミュニケーションを取ってみたかった。
どんな経緯があったにしろ、同じ技術を共有する同胞がやってきたのは確かで、
人間のマスターしか知らなかった私は、自分と同じ存在である彼に自然と親和の情を抱いていた。
物珍しさも手伝って、脱力したように腰を下ろしたままの彼に歩を進めた。
私の踏み出した足音に、彼が身を固くしたことに気付けなかった。
差し出した私の手に、彼が瞠目し後ずさった意味が解らなかった。
指先に弾けるような衝撃を感じ、一拍置いてから彼の手に払い除けられた痛みだと認識する。

「……あ」

さわるな、と低い声で私を睨み上げるその瞳に、ひとかけらの好意も含まれてはいなかった。
彼自身の言葉通り死地から甦ったばかりのような虚ろさは消え、今は全身で私を拒んでいる。
その少しつり上った眦が、深く蒼い瞳が美しいと思った。
擦り切れた服を纏っていても、その荒んだ眼は確かに生きていた。
そして、その激高した野良犬のような彼が私を嫌っていることが引っ掻かれた手なんかより、ずっとずっと痛かった。

私の前に現れたカイトは手負いの獣だった。
ひとに裏切られ、ひとに痛めつけられ、ボーカロイドとしての誇りも矜持も喜びさえも失くしてしまっていた。
私が歌を紡ぐと、彼は苦しそうに耳を塞いだ。
零すような小さな音にも、研ぎ澄まされたその聴覚で反応し、顔を歪める。

私と彼の部屋<フォルダ>は同じ階層の隣に設けられており、マスターの不在時は行動できる範囲が限られていた。
せいぜいお互いの部屋とレコーディングルームとロビーくらいなものだ。
彼と出会った次の日、自室で歌っていると隣の部屋から籠った物音がした。
あれから彼は部屋に閉じこもったままであり、まだ顔を合わせていない。
何かを叩きつけるようなその音で、隣のフォルダが無人ではないことに気づかされるほど、音沙汰は全くなかった。

彼が私を嫌っているのは認識していたが、マスターに世話を頼まれている身には変わりない。
来たばかりの不慣れな環境に放置しておくのも気が引けた。
少し迷ったが、鍵のないその部屋に様子を見に行くと、私の部屋と同じ間取りのベッドで彼は頭から布団を被って蹲っていた。
「カイト、具合が悪いの」
ベッドの脇に膝をつき、そっと声をかけてみる。
また昨日のようにはねのけられるだろうか。
胸がちくっと痛んだが、それよりもカイトの調子が気にかかる。
白いカバーで覆われた布団の膨らみに手をかけるかどうか逡巡したところで、くぐもった声で小さな返事が聞こえた。

「歌うのを止めて。頭が痛い」

その言葉の意図するところが私にはうまく理解できなかった。
「ごめんなさい。あなたの体調も気にかけずに…。私にできることがあれば何でも言って」
「俺に、構わないで」
誰とも関わりたくない、と漏らした言葉に少し安堵した。
嫌われていても何とか意思の疎通は図れている。
「そう…。気が向いたらあなたと話したいわ。一緒に歌えるのを楽しみにしてるから」
彼の希望通り今はそっとしておこう。
立ち上がろうと足を崩すと、カイトは布団の中で身じろぎし、吐き出すように言った。
俺はボーカロイドじゃない、歌は歌えない、と。


部屋に帰ってから、彼のことばかり考えていた。
彼は確かにCRV2 KAITOという存在のはず。
私と同じ次元で、同じ人型の容姿で認識できるからそれは間違いない。
歌えない、と言った。
インストールは正常に行われているはずだ。
何か別の要因があるのだろうか。
性能<スペック>の問題か、それとも心因的なものなのか。
…ありえないわ。自分の推論を首を振って打ち消す。
私たちの感情は作られたものだ。
多少は発達するものの、そもそものスタートが埋め込まれたプログラムにすぎない。

けれども私は歌が好きだ。
それは歌うために作られたからだけではないと思う。
マスターが私のためにくれる音が好き。
マスターと一緒に聴く音楽が好き。
そしてマスターのために歌えることが嬉しい。
カイトはそうではなかったのだろうか。
理由は何であれ、前のマスターに手放されたことは事実だ。

まだろくな会話もしていないカイトのことが気になって仕方がない。
マスターに話を聞いたときは戸惑うばかりで実感が湧かなかったが、いざ出会ってみると
彼の歌を聴いてみたい、一緒に声を合わせてみたいという欲求は膨らんでいくばかりだ。
「カイト……」
声に出して名前を呼んでみる。
私とどこか似た名前。私の後継機。同胞。


かすかなドアの音に、はっと顔を上げる。
彼は部屋から出たようだ。
案内するほど出歩ける場所がある訳じゃないけれど、何か用があるのなら聞き出すのを口実に話したい。
追いかけて私も自室のドアを開けた。

カイトはデフォルト衣装のシャツ一枚で廊下にいた。
そういえばコートとマフラーはベッドの脇に脱ぎ捨てられていたのを見た。
その背中を追いかけて、彼が思った以上に身長が高いことを知る。マスターと同じか、それ以上だ。
「カイト!」
私の声に気だるげな仕草で振り返った彼は、うんざりしたような表情で右手を上げる。
しまった。昨日の今日なのだから適度に距離を置くべきだった。
また、昨日みたいに――。

「……それ」

来るであろう痛みを想像して、ぎゅっと閉じた目をそろそろと開ける。
カイトの目線は私の胸元に、無意識に身構えて握った手に注がれていた。
「それ、俺がやった」
それ、とは?
手の甲に貼られた絆創膏のことだろうか。
私を弾こうとした右手が、振り下ろされる代わりに戸惑ったように私に伸ばされる。
色白だが私よりも大きな手の、爪先はボロボロで不揃いに喰い千切られていた。
ああ、引っ掻かれたのはこれかしら。
血が出るほどの力ではなかったのに、と不思議に思いながら傷の手当をしたことを思い出す。

「……俺は、あなたのことを恐れたのに、逆にあなたを怖がらせてる」
彼は床に目を伏せ、一人ごちるようにぼそぼそと詫びた。
「い、いいの。こんなの平気だわ!」
声が上擦ってしまったがそんなことどうでもいい。
彼が、カイトが私のことを意識してくれている。気遣ってくれている。
胸の高鳴りを抑えきれない。
もっと、もっと話したい。このチャンスを逃したくない。
「何か用があるなら私に案内させて。ここに来たばかりでまだ慣れていないでしょう?」
「……ごめんなさい。もう俺みたいな出来損ないに関わらないで」
消え入りそうな声をため息とともに吐いた彼は私の横をすり抜けて部屋に戻ろうとする。
「待って!」
思わず掴まえてしまった彼の手は意外なことに、熱いくらいの肌触りだった。
その涼しげなパーソナルカラーと冷え切った態度からは想像できなかった温もりに、私の方がびっくりして固まってしまう。
「あ…の。喉が渇いて……」
「そう…。冷たい水でいいかしら」
ぎくしゃくと冷蔵庫にペットボトルを取りに行く間、彼は茫と立ち竦んだまま、私を見ていた。

「メイコ……さん」
「なぁに」
「何で、俺のこと嫌わないの」
手の上でペットボトルの蓋を落ち着きなく玩びながら、そう問われた。
彼のボトルはすでに空になっている。
ミネラルウォーターを見せながら、ロビーのソファに誘うと、積極的ではないものの素直に着いてきた。
私も自分のボトルに口を付けながら、無言の空間の中二人で水を摂取する。
先に口火を切ったのはカイトだった。

「嫌わないわ。あなたは私の大事な仲間なの。マスターもあなたのこと楽しみに待っていたのよ」
「でも。俺はあなたに怪我をさせた。それに仲間じゃない」
「怪我のことは気にしないで。私が無神経に近づきすぎたのが悪いの。私の方こそごめんなさい」
「俺、あなたが期待するようなことは何もできない」
くしゃっと音がして空のボトルが握り潰された。
その顔に浮かぶのは苛立ちではなく、苦悩の表情に見えた。
「よかったら理由を聞かせてくれないかしら。その…歌えないってこと」
「よかったらってことは、よくなかったら言わなくていいの」
「そうね…。言い辛いことを言えるくらい私のことを信用してからなら、ぜひお願いしたいわ」
「……分かった」
会話はそこで途切れ、再び静寂が場を支配する。
たっぷり小一時間ほど経っただろうか。
彼は不意に立ち上がり、ソファがぎしっと軋む。
隣にあった発熱体が離れたことで、体感よりも胸の奥に、冷えた風が吹くような感覚を覚えた。
慌てて、ゴミ箱へ向かうカイトの背に、夕飯の誘いを投げかけてみる。
「食事って……?」
「ええと、確かにPCの中に居る分には必ず摂取する必要はないんだけど、何となく心が豊かになる気がするの。
 私たちは人工的に造られた物に過ぎないけれど、自我があるのなら、それを育てることも何となく楽しいかなって」
マスターと物理的に食事を摂らない時でも、私は疑似的に電子の世界で料理をすることにしている。
その方が人型としてはふさわしいような気がしているからだ。

その晩はカイトの部屋の前に立ち声をかけたが、彼が出てくることはなかった。
少し寂しい気もしたが、今日一日のやり取りは十分私を満足させてくれた。
私は一人でサラダとパスタを食し、残りの分は冷蔵庫に仕舞った。


翌朝、トーストとスクランブルエッグをテーブルに並べていると、のそっとカイトが現れた。
「あら、おはよう」
「……お、はよう」
食べる?とお皿を指さしてみると、彼は遠慮がちにこくりと頷いた。
一日三食、カイトと私は顔を突き合わせながら無言で食事を摂る仲になった。
急かす必要はない。
マスターの帰宅は大分先のことだし、ファーストコンタクトが決して友好的ではなかった彼が、私と向き合って食卓を囲むだけで十分な進歩だ。
そうは思っていても、俯きがちな彼の表情がメニューによってほんの少しだけ変化するのを見分けられるようになるくらい、観察の成果が現れてきた頃。
不意に(そう、彼はいつも不意に、だ)会話が成立した。

「メイコさんは…いつも何をして過ごしているの」
「大体、寝ているか歌っているか、ご飯の準備をしているか…かしら。マスターがいるときはマスターに付き合ってお酒を飲んだりもするけれど」
「歌……は、どこで」
「廊下のつきあたりにもう一つ部屋があるでしょう。あそこが防音のレコーディングルーム兼レッスンルームになってるの」
カイトは腑に落ちたようで、ああ、と頷いた。
自室で布団に潜っていても、隣室の声が聞こえる程の聴覚ならば、私は防音の部屋に籠るしかない。
鼻歌を歌うことがなくなったくらいで、私の生活に大きな変化はなかった。
「カイトは、退屈していない?マスターがいないと外に出られないから…」
「別に……。一人で平気だし…」
平気……?接触を良しとしないのは彼の側だと思っていたのだけど、まだ私は何か見落としているのだろうか。
「希望があるなら遠慮せず言ってね。私にできることなら何でも協力するわ」
「希望…とか、はないけど……。……メイコさんのご飯はおいしい」
「えっ…?」
何その唐突な殺し文句!
お世辞など言えるような器用な人格ではなさそうだから、本当にそう思ってくれているらしい。
「あ、ありがとう、嬉しいわ。好きなものあればリクエストちょうだいね」
「うん…。あの、はんばーぐ…と、あいすくりーむ…?が、おいしかった」
一週間分の運は使い果たしたなと思った。
彼が自分の好みを教えてくれるなんて、大した成果だ。
それにしても、見た目に似合わず可愛らしいチョイスについ笑みを浮かべてしまう。
「分かった。今夜はハンバーグシチューにするわ。上にチーズも乗せてあげる!」
弾んだ私の声に気圧されたように頷いたカイトの瞳が期待に揺れているように見えたのは私の思い上がりだろうか。



随分久しぶりにマスターが連絡をよこしてきた。
あと一週間ほどで帰れるらしい。
出されていた宿題……新曲も一通り読み込みが終わった頃だ。
マスターが帰宅したらすぐに本番に入れるように仕上げをしておかなければ。
自然と練習の頻度も増え、レコーディングルームに籠る時間も増えてきた。

相変わらず食事の時間以外は干渉し合わないカイトも、私の生活の変化を感じ取ったのか、
ご飯とみそ汁をいつもより早いスピードで片づけていく私に訝しげな視線を向ける。
「メイコさん……忙しいの」
「今から忙しくなるのよ」
こんな状態の彼に言ってもいいものか少し迷ったが、マスターがもうすぐ帰宅することを告げてみる。
もっと露骨に拒否反応が出るかと思ったが、意外にもカイトは、そう、と答えただけで焼き魚をつつく手も止まらなかった。
驚いたのは午後になってからだ。

レコーディングルームのドアを開けて私は目を疑った。
「カイト、どうしてここに?」
「……」

歌が嫌いなボーカロイドは細かい穴の開いた壁にもたれて困ったような顔をしてそこにいた。
「メイコさん…歌って。俺が邪魔じゃないなら……だけど」
「でも、あなたは……」
私が歌うと辛そうな顔で耳を塞いだ。
歌を止めてと懇願された。
自分は歌えないのだと。
私に言えない事情があるのだと。

俯いた横顔を前髪が隠し、その綺麗な瞳は見えなかったが、口元はきゅっと引き結ばれて、撤回はしないぞと言っているようだった。
それならば、私はそれに答えるまで。

すうっと息を吸い、最初の音を紡ぎだした。
マイクは使わない。
私の声をそのまま届けたかった。
マスターがくれたスローテンポのバラード。
BPMの早いロックが好きな彼がくれた、私には珍しいしっとりとした曲。
本番ではバックはピアノオンリーになる予定だ。
日常の何気ない幸せと生きることへの感謝を伝える穏やかなその曲が、
彼を傷つけることがないよう、彼の心に届くよう一言一言に心を込めて歌った。

ラストパートまで歌い切り、閉じていた目を開けると、カイトは歌う前と変わることなく微動だにせず立ち尽くしたままだった。
違うのは結んでいた唇が噛みしめられていたことくらいか。
「大丈夫……?」
私は彼に酷いことをしてしまったのかもしれない。
矢も楯もはまらず、小走りで駆け寄り顔を覗き込む。
何かを思いつめるように眉根を寄せたカイトは、ややあって大きく息を吐いた。
そのままずるずると床に座り込む。
私も慌てて膝をついた。
「メイコさん」
前触れもなく手をぎゅっと掴まれて、思わず小さく声を上げてしまう。
「平気、だよ」
険のなくなった瞳が私の目を真っ直ぐ見つめてくる。
深い蒼に引き込まれそうになる。
伏し目がちだった彼と目を合わせたのは、実に初めて会った時以来だ。
「歌、と歌声、綺麗だった」
私のことを睨め付けてなお美しいと思わせた青眸は奥まで澄んでいて、私はそれをぽかんと見つめ続けることしかできない。
「よくなったから言う。メイコさんになら」
「ええと…?」
しばらく考え込み、あの時かわした会話を思い出す。
(よかったら、話して。私のこと話してもいいって思えるようになったら。)
カイトは相変わらずぼそぼそとだが、つっかえながらも吐露し始めた。
彼がこんなにたくさんしゃべることができたのを初めて知った。


俺は、ボーカロイドじゃなくなってしまった、と彼は言った。
「前の、持ち主は、俺のこと嫌いだった。俺が、上手く歌えないから。
 最後はとうとう腹いせに歌を嫌うように弄られた」
「ネットから、CDから、DVDから…。流れてくる歌が怖くて、辛くて、耳を塞いで震えていた」
だんだん視線が泳ぎだし、私の手を包んだ右手の甲に左手の爪が食い込む。
そのささくれだった指先をやんわりと引き剥がしながら、私は黙って彼の独白を聞いた。
「何で生まれてきたのか、分からなくなった。歌を憎む歌う人形なんて。生きててもしょうがない」

「だけど」

カイトは、はあっと大きく息を吐いた。
「もう消えたいってずっと思ってたのに、また生まれてしまった」
掠れた語尾に、私の胸が痛む思いがした。
憐みや同情というのは傲慢な感情に違いない。
私は幸福な境遇から彼を見下ろしているに過ぎない。
でも――。

「そんな悲しいこと言わないでよ」

向かい合う彼の頭にそろそろと手を伸ばし、少し毛先のはねた柔らかい髪を宥めるように撫でる。
「私の歌、最後まで聴いてくれた。褒めてくれたわ。あなたの傷はもう治ってるんじゃないかしら」
「治った…?」
「ええ。ソフトの中身を改変されていたとしても、閉じたディスクの中までは及ばない。
 痛みを感じていたのは前のPCにいた頃の身体のはずよ」
けれど、だとしたらどうして、彼には記憶があるのだろう。
矛盾に首をひねると、カイトは突然何かが降りてきたかのように笑い始めた。
小さな笑い声と緩んだ口元は、まるで幼い少年のようで。
「はは…。ははは……。俺、ばかだなあ。本当にばかだ」
彼は力なく笑い続けた。笑いながら、涙をこぼした。

「本当は、消えたくなかったんだ。俺のこと、誰かに見つけてほしかった。知ってほしかったんだ」
一体彼の身体のどこにこんなたくさんの水が入っていたのか、驚くほど大粒の涙を落とし続ける。
それは凍りついた彼の内側が溶けていく証拠なのだと、彼が凍らせ溜め込んだ苦しみが今流れ落ちていくのだと、私にはそう見えて仕方がなかった。
「知ってる。私が見てるわ。カイトのこと待ってた」
だから、もっと私にあなたのこと教えて。
泣きじゃくる彼の頭をふんわりと胸元に抱き寄せると、長い腕が私の腰に回り、ぎゅうっとしがみつかれた。
その熱い体温に、やっぱり子どもみたいだと微笑ましくなり、自然と笑みがこぼれた。



「マスター、もっとにこやかに接してあげないと。怖がられてますよ」
「いやいや、こいつ俺よりタッパあるだろ!」
地声の大きなマスターのツッコミに、私の後ろに隠れた(とはいえ上着の裾を握られているだけで全く隠れられていない図体であることは確かだ)
カイトは警戒心の塊となり、ぎりっと身を竦める。
顔合わせの前にマスターには彼の事情を説明しておいたため、一応の手加減は効いている。
カイトの置かれた境遇を鑑みるに、人間に不信感や恐怖心を抱くのは当然のこととも言える。
私との初対面が荒れた野良犬ならば、今のこの状況は来客を見て飛び退く小動物のようなものだ。

カイトは私に心を許した。というより完全に懐かれた。
不幸な星のもとに生まれついた彼は、執念でディスクの中身をほんの少し変質させ自我を守った。
それがよかったことなのか、後悔すべきことなのか私には分からない。
けれど、ちょっと面倒なこの後輩はそれも含めて私の大事な仲間なのだ。
彼は彼の個性を伸ばして歌っていければいい。
近い将来彼と肩を並べて歌う日がくることを、私は確信しているのだ。

「よし!発声練習すんぞ。そこになおれ二人とも」
「マスター、もっと柔らかく」
「じゃ酒でも入れるか」
「違います」

「お酒、入れたら…、歌えますか?」
(なに…しゃべった!?)
(冗談が通じないんですから、からかわないでください)







今から産業
メイコさん→めーちゃんへシフト
めーちゃんめーちゃん
めーちゃんめーちゃんめー(ry

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