「寒い、ねー……」
「……うん」
ふわりと呟いたメイコは、穏やかに在ろうと努めているのだろうが、僕のマフラーの端を握り締める指先は固い。
そっと肩先を抱き寄せると、人心地を求めて僕の懐に頭を預けた。
常ならば内心小躍りして喜ぶか、勢い余って抱きしめかけたところで額を爪弾きされるのがオチなのだが、今日に限ってはそんな気も起きない。
ただ、彼女の不安を和らげられるか腐心し、それが周り廻って僕自身を平静に保っていることを、客観的に認識するだけだ。

「これも使う?」
長くて手触りは良いが、あまり防寒の役目を果たしているとは言い難い青い襟巻を解こうとすると、冷たい手が慌てたように遮ってくる。
「だめよ! カイトが風邪ひいちゃう。私はもうこんなに借りちゃってるのに」
「大丈夫だよ。僕はそんなに寒くないから」
「いいから!」
オーバーサイズの白いコートの袖口から覗く細い腕が、やや強引に僕の首にマフラーを巻き直す。
大した考えもなく七分丈のシャツの上にコートを羽織って今日の収録に臨んだ僕は、肌寒い季節になってきたとはいえ、元々暑がりだ。
終わったら衣装であるコートは脱いで、シャツ一枚で帰ろうと思っていたくらいだから、メイコにそれを貸したところでどうってことはない。
こんな事態に陥ってなければ尚更に。

「マスター大丈夫かしら。全然状況が分からないし……」
「あの人まだ若いから急病じゃないと思うし、、住んでるところもそんなに物騒な所じゃないって言ってたから、大丈夫だと思うよ。うん、きっと……」
所在なさげに見上げれども薄闇の中には何も見えなかった。


デジタル・トリップ


久しぶりのデュエットだった。
次のイベントでお披露目される予定の、アルバムの一曲目のナンバー。
マスターもご満悦の100点満点のレコーディングを滞りなく終えて、僕らはマスターと軽口を叩きながらスタジオの片付けをし、さあ出るぞ、というところになって、マスターの声が妙に遠のいていくのに気付いた。
僕らを呼び出したマスターの声や映像は、普段であれば通信回線を切るまでは途絶えることはない。
ぷつり、というか、ふっと消えてしまったマスターは、何も映さないモニターの向こうにいるのかいないのか。
ひとまず自室から再度コールしてみようかとレコーディングルームのフォルダを出た僕らの前には何もなかった。
出てきたばかりのフォルダも振り返ると跡形もなく、薄暗く何もない空間に僕ら二人だけが取り残されてしまったのだ。

「まず考えられるのは、PCがフリーズした可能性」
「そうかもしれない。でも僕らには確証が取れない」

僕らの居はPCの中にある。
けれどもマスターはめったなことがない限りPCの電源を抜かないしオンライン回線を切らない。
普段の僕らは電脳空間の中にでかけたり、部屋でくつろいだり好きに過ごしている。
唯一行動に制限がかかるのが、ソフトとしての本分、マスターに呼ばれて歌を奏でるときだ。
僕らの世界とマスターの世界をつなぐ「モニター」の表層にあるレコーディングルームにいるときが、マスターとコミュニケーションを取れる場になる。
自室であるフォルダにも通信設備はあるが、放任主義なマスターはめったに僕らの私生活に干渉してくることはない。
つまり、マスターの世界はボーカロイドのいる電脳世界の上位互換であり、僕らの側からマスターの生活をうかがい知ることはできない。

「何で私たち意識があるのかしら」
「それがおかしなところなんだよなぁ」

マスターと僕らが共同で歌を作り上げているとき。
稀に「フリーズ」が起こる。
僕らの世界とマスターの世界が交差した時だけ、僕らはその影響を受けてしまう。
マスターが「えくせる」や「ふぁいやーふぉっくす」たちと交信中にトラブルがあったとしても、表層に浮かんでいない僕らには関係がないからだ。

フリーズとは一言で言い現わすとすると、奇妙な体験の一語に尽きる。
狭義の眠りとは短き死に他ならず……とは誰の言葉だったか。
嫌な予感がしたときにはもう遅く、抗うすべもなく意識がぶつ切りにされる苦痛。
次の瞬間、前触れもなく突然ベッドの上で目を覚ます異質な感覚。
フリーズしている間の時間感覚は皆無で、マスターの安堵の表情に迎えられ事情を説明されるたびに、タイムスリップをしたかのような寂寥感に包まれる。
(収録の最中にそれが来たりした日には、レコーディングした歌のデータもなかったことになる場合があり、そのときは歌い直しの憂き目を見る)。

が、今回はいつもと少し事情が違う。
フリーズのときならば完全に絶ち切られてしまう意識が延々と引き延ばされ、考える時間を与えられていた。
これが夢でなければ、隣で戸惑うメイコも同じ感覚を共有している。

「とりあえず、僕もめーちゃんも生きてる。もうちょっと待ってみようよ」
「意外に度胸あるのねあんた」
「何もできないんだもん。諦めが肝心ってね」
へらっと笑ってみせると、メイコの表情も僅かに緩む。
僕のコートを羽織ったメイコはぎゅっと抱えていた膝を少し伸ばし大きく息を吐いた。
心細さに依るものか、いつもの彼女と比べて、仕草も表情もいとけない。
強がる元気もないのか、頼りなく落とした肩は小さく、庇護欲をそそる細い指先は宙を掴むように彷徨った末、ぱたりと落とされた。
痛ましさに思わず掬い上げたその掌はやっぱり冷えていて、僕は無力感に苛まれる。
寒がりのメイコは、仕事以外では露出の少ない恰好の方が多いくらいだ。
今日だって帰ったらすぐにもふもふのワンピースの部屋着に着替えて、熱い紅茶を飲んでいたはずなのに。
僕もマフラーの首元を少し緩め、丸めていた背筋を張り、伸びをした。
調子の良いことを言っても、僕だって十分陰鬱な空気に飲み込まれてしまっていた。

ここは不思議な空間で、壁もなければ天井も見えない。
二人とも座っているように見えて、何かに腰を掛けているのか、床に座り込んでいるのかそれすらも曖昧だ。

「何だか、生まれる前のせかいみたい」
「そんな記憶があるの?」
ううん、と首を振ったメイコは、よそのMEIKOに聞いたという話をぽつり、ぽつりと語りだした。

リリースされる前、まだ形も定まっていなかった頃のMEIKO。
何も見えない。触れない。
音だけが聞こえるせかいで、外の話を聞いた。
早く外に出てみたい。
たくさんのひとに囲まれて、歌を歌いたいの。

ずっとここでいい。
姿のないKAITOが寂しげに呟いた。
外なんかいかなくても、ここで歌えばいいじゃないか。
広すぎるせかいなんか知らなくていい。
だって、外に出たらMEIKOは僕の事忘れてしまうだろう?

「プロトタイプの記憶なんて私はちっとも覚えてないのにね」
「うわ、プロトなだけあって、他人な気がしないなぁ……」

新しいことに保守的な僕も、きっとそのプロトのKAITOと同じことを言っただろう。
一つ良かったのは、ちゃんと僕と対になるメイコに出会えたことだけど。

時間が流れているのか止まっているのか皆目見当もつかなかったが、黙っているのも落ち着かず僕らは他愛もないことをだらだらとしゃべった。
憂いに押し潰されそうな気持ちを奮わせるために。多少なりとも笑えるように。
最近見つけたおいしいお店。
新しい仲間の噂。
自分だけが知っているお互いの小さなクセ。

「そうそう! そこが可愛いところよね」
「センスが分からないよめーちゃん」

それでも助けは来なかった。
……ので、景気付けに何曲か声を合わせて歌った。
一人三役ずつくらい兼ねた物語音楽。
ネットカラオケの採点で一番高得点だった自慢の一曲。
お互いのパートを交換してみたデュエット。
声はまったく反響することなく、すべてどこかへ吸い込まれるように消えていった。

「スタンドマイクが恋しい」
「このヘッドセットもほとんど機能してないよ」

薄暗い異空間では、隣にくっついている相手の顔がようやく見えるくらいで、二、三歩離れると自分がどこからきたのかも分からなくなるような闇に足を取られてしまう。
コートの裾を踏んづけたメイコが前のめりに転んで、そのまま姿が見えなくなるかと思った瞬間、僕は自分でも引くぐらいのスピードで抱きとめることに成功した。
現に、その際滑り落ちたマフラーは二度と手元に戻ることはなかった。

「ごめんね……、私探してこよっか?」
「いい! いいからここにいて! めーちゃんがここにいてくれればマフラーとかどうでもいいから!!」


そして次第に言葉少なになったメイコの瞼がだんだん下がってきた。
うつらうつらと眠りの境界を漂う長い睫毛が時たま、はっと揺れ、こっち側に引き戻される。
「めーちゃん、寝ててもいいよ。マスターが来たらちゃんと起こすから」
眠ったらメイコは消えてしまうんじゃないか。
そんな心配も少しはあったが、単なる疲れのせいだろうと自分に言い聞かせる。
こんな得体のしれない空間で体力もかなり消耗しているのだろう。
僕自身も大分思考能力が失われている気がする。

さらさらの髪を何度か優しく撫でていると、幼子のようにことん、と眠りに落ちた。

さて。マスターは今頃何をしているんだろう。
無事かな。無事でいてほしい。
無事なら何か僕らを助ける手段を講じているに違いない。
いや、そうでないと困る。
まさか寝落ちして忘れられてなんかないだろうな。
ありうる。
いやそんな、さすがに信じたくない。

このままずっとここにいたらどうなってしまうのだろう。
オンラインにも繋がっていないみたいだから、ネット上に逃げ出すことはできない。
そもそもフォルダを出たところでここに放り出されたんだから、マスターのPCの中とも限らない。
もし電力の供給が途絶えてしまったら、誰かが僕らを発見する術を持たない限り意識はもう戻ることはないだろう。
それはつまり、しんでしまうってことかな。
そうなったらもう歌も歌えない。
ボーカロイドとしての日常もここでもう終わる。
メイコにも、もう、会えない。

僕の膝で眠るメイコの頭をもう一度撫でる。
ずっと前から隣にいるのが当たり前で、これからもずっと一緒にいると信じて疑わなかった僕の大好きなひと。
しんでしまったら、その気持ちも消えてなくなってしまう。
フリーズしたときみたいに。
フリーズと違って、二度と目覚めない。

「だけど」

終わるなら。
どうせ終わってしまうのなら。
今この瞬間が一番幸せなのかもしれない。
最期まで二人でいられたなら、それは素敵な結末だったと言えるんじゃないか。

そう思ってしまう僕がいた。

いつか、遠いとは限らないいつか。

マスターが僕のことを必要としなくなったとしたら。
深刻なエラーが発生してしまったら。
メイコが僕のことを嫌いになってしまったら。

先の事なんて何もわからない。
それなのに、不安はいつも心の奥底に潜んでいる。

(ずっとここでいい。)
暗闇の中で誰かが寂しげに呟いた。
(外なんかいかなくても、ここで歌えばいいじゃないか。
広すぎるせかいなんか知らなくていい。)


おんなじだ。
記憶なんてないけど。
「あの時」とおんなじなんだ。

これ以上は望んではいけない?
これ以上進むことがいいこととは限らない?

(だって、外に出たらMEIKOは僕の事忘れてしまうだろう?)


だから僕は、ここでずっと。


薄明りが音もなく落ち、辺りが真の闇に包まれる。
膝にかかる重みと、手の中の髪の感触を確かめる前に、僕の意識は――――。



急激に覚醒し、スタジオのフォルダの外に座り込んでいた僕は、はっと瞠目した。
メイコは?
肩に掛けられていた上着が滑り落ちるのも構わず、床に落ちたマフラーを踏ん付けたのを横目に、スタジオのフォルダに飛び込んだ僕は明るい笑顔のメイコに迎えられた。
「カイト! よかった、ちゃんと起きられたね!」
「めーちゃんこそ! どこもおかしくない?」
駆け寄ったメイコは見慣れたメイコで、温かく空調の効いた部屋は出る前と何も変わらず、モニターに映るマスターは気まずそうに僕らに頭を下げた。
「ごめんな、メイコ。怖かっただろ」
PCが原因不明の不具合でな。とにかく処理が遅くなってタスクマネージャすら開かなくてまいった、と疲れの残る顔で彼はため息を吐いた。
「あー、その……、カイトも。本当にすまん。悪かった。許してくれ」
「ははは、やだなあマスター気持ち悪いですよ」
メイコに対しては世界で一番お嬢様、僕に対してはなんか青いの扱いのマスターが珍しく僕に対しても平謝りだ。
突然丁重に扱われるなんて、嬉しい感情より先に疑念が渦を巻く。
「え? ほんとは僕もうしんでるとか?」
死後の世界ならすべてつじつまが合うな、と納得していると、メイコが僕の頬に触れた。
その感触は温かく、軌跡はすぅっと冷えていく。
「……うそ」
マスターが気まずいというよりいたたまれない表情で、僕から目を逸らす。
メイコは、うんうんと頷き、目を潤ませて僕を見上げた。
僕は。
僕はこんなにみっともなく号泣してるところを一番見られたくない二人に晒していることにやっと気づいたのだった。


その場にへたり込み、情けなく顔を隠す僕。
熱暴走のせいで内部のボードが云々と無駄に細かく早口で言い訳を始めるマスター。
弾んだ足音でいずこかへ向かったらしいメイコ。
その熱暴走とやらは今まさに僕の顔面に感染っているに違いない。

ああ、知らなかった。
自分でも信じられないくらいここは居心地がよかった。
まだまだ歌いたいし、マスターとお馬鹿な舌戦繰り広げたいし、メイコを好きな理由あと10万個くらい見つけたい。

斜に構えて心中まで妄想していた厨二具合に変な声が出る。
何これもうやだ穴を掘ってでも埋まりたい。

どこからともなく戻ってきたメイコが、僕の頭からコートをひっ被せ、耳元で囁いた。
「私たちやっぱり生きてたかったの」
それは遠い昔にとある女の子が、怖くて最初の一歩を踏み出せなかった弟に言った言葉。
「広い世界で歌いたかったの」
唇を噛んで、駄々をこねて、スカートの裾を離さなかった幼い少年に語った言葉。

「ね、うまれてきてよかったでしょ」
僕は、必死で鼻水を堪えたへなちょこな涙声で、うんと頷く以外に答えを表現することは出来なかった。




END















カーソルは動くのに×をクリックしてもブラウザが閉じない。
仕方がないのでウィンドウを最小化すると、なんとデスクトップのアイコンが全部消えている!
再びブラウザを呼び出そうにも反応がない。
タスクマネージャーさんも起きてこない。
仕方ない再起動するか……お前も無視かい!
平均で30分ほど格闘した挙句、泣く泣く電源を長押しして強制終了。
ハラハラしながらセーフモード立ち上げ。
こんなエラーが頻発するようになってきたPCの中をモデルにしたお話です(悲しいほどに実話)。

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