めいちゃん、と生気を失った男はか細い声で呟いた。
「ぼくは、しんじゃうのかな」
メイコは膝の上に乗せられた彼の頭に手を伸ばした。ほつれた髪に指をさし込み緩く梳いてやる。
ややくすみがかった蒼い色が一段と、沈み込むように鮮やかさを失っているように見えた。
髪の色に憔悴が現れるなんておかしな話だけれども。
「あんたはそうしたいの」
静かに問うと、三拍ほどの間を置いて、分からないや、と吐息と紛うような囁き声が返ってきた。


霞む目に映る君、寄せられる頬



大声で叫んで、壁を殴りたいようなもどかしさと、もう消えてしまってもいいなと思えるほどの無力感は、確固として僕の中に共存していた。
人工血液が体内を巡る度に鈍く痛む頭、自分の身体だとは信じがたい重たく動かせない四肢、
何よりも、掠れ裏返り汚い声を出す喉、そのどれもが僕を苛立たせ、胸をざわざわと毛羽立たせ、涙を滲ませる。

ただの「カゼ」。疲労によるダウン。体温が上がり悪寒とだるさが身体を襲い、一定の時間を置いて出る咳に身を震わせる。
一過性のものに過ぎないし、死ぬことなんてできやしない。
なのに精神の方は動かない身体に痺れを切らし、出口を求めてうねり乱れる。
不安で不安で仕方なくて、人恋しさが募る。
めーちゃんはここにいてくれているのに。今まさに僕の髪に触れてくれているのに。


「カイトが頑張ってたの私はちゃんと知ってるわよ」
「 で…も、  意味、な かった……。  」

「辛かったわよね。 だけどその分あんた自身のスキルは確実に上がってるわ」
「   う…  ぅ、 あぁ……ぁ  …ッ! 」

めーちゃんは絶対に僕を諌めない。たとえ僕に努力が足りない部分があったとしても、責めることはない。
僕が自分で奮い立つのを待っているのだ。
卑屈で自己評価の低い僕が、それでも自分の足で前に進めるように寄り添って、黙って見ていてくれるだけ。
それはきっと、僕自身が途中で投げ出すことを心のどこかで拒んでいることを知っているから。
背中を押さないことで、僕が自立できたという事実を後に残したいと思っているから。
こんなことの積み重ねで、確かに僕は少しずつではあるが、自分に自信をつけてきていた。
だけど、そこまで分かっていても、もう少し甘えていたかった。


一心不乱に歌った。基礎トレーニングも、復習も欠かさず声を出し続けた。
演歌にポップス、ロックにバラード。情緒を込めて、歌の世界に入り込んで。
変拍子転調、裏声にビブラート。息継ぎは短く、早口は滑らかに。

休むことを忘れていた。突然肉体が意識の制御を離れてしまった。
動かし続けた身体を止めてから気付いた。この一ヶ月で入ってきた仕事の数が片手の指で足りてしまうことに。
こんなにきつい思いをしても何も報われなかったことに絶望した。


**
「めー、ちゃ。何が、いけなか、た。のかな 」
「何にも。強いて言えば運かしら。いつもうまくいく仕事じゃないことは分かってるでしょ」


「ね。ど、しよ。こ、え、出ないよ。 歌えなくなったボーカロイドは、いらなく、なる?」
「またそんなどーでもいいこと考えて。あんたは本当に悩むの好きねぇ」

「だって、も、苦しくて…っ」

馬鹿馬鹿しいことでも、答えて欲しかった。肯定して欲しかった。努力を認めて欲しかった。
それを言葉にして、耳で聞きたかった。


「じゃあ泣きなさい」

そう彼女は言った。見ててあげるから、と。
きつくてだるくて声を上げて泣くのも億劫だった僕になんて酷なことを言うのだろう。
だけどその言葉に緩んだ僕の脳は涙をこぼすことを両眼に命令した。するすると流れる涙に、報われなさが少し持っていかれた気がした。

「……僕は、ちゃんと、頑張れて、た?」
「そう言ってるわ。最近のあんたは前よりずっといい声出すもの」

「ほんと、に」
「本当に」


僕が頑張っていたことも、泣くほど悔しい思いをしていることも、世界中でたった一人、めーちゃんだけは見ていてくれる。めーちゃんだけは知っている。
そのありがたさがじわじわと僕の涙腺を溶かして、僕の弱った身体は泣くことに全霊をかけて呼吸を荒らげた。


***
次々と彼女のスカートに染み込んでいく僕の涙をタオルでふき取っためーちゃんは、ちょっとごめん、と一声かけて素早く僕の頭の下に枕を滑り込ませる。
僕の重みから解放された彼女は、ベッドから降りて大きく伸びをした。
随分長い間彼女の膝を占領してしまった。疲れただろうな。申し訳ないな。
でも、まだここにいてほしいな。一人になるのは嫌だな。
伝えようか伝えまいか迷っているうちに、げほげほと咳が出てきた。
その耳障りな音に振り返っためーちゃんは、ふっと柔らかく微笑んで、僕の汗ばんだ額に手を伸ばす。
その冷たさが心地よくて、思わず目を閉じた。一度離れた手はすぐに濡れたタオルを伴って、僕のこめかみや髪の生え際を拭い、首筋に降りた。
一通り僕の不快感を取り除いてくれためーちゃんは、あくびを一つして、僕の布団に潜り込む。

「私眠いの。悪いけど先に寝ちゃうかもね」
ぴったりと僕の胸に張り付いた彼女は、また少し咳き込んだ僕の背中に手を回し、丁寧に撫で擦る。
よしよし、かわいそうに、と慈しみをこめて抱いてくれるその掌の感触に、鼻の奥がつんと痛くなった。
めーちゃんの身体がさっきよりもずっと近くにある。そのことが僕の孤独感を少し和らげてくれている。
「めーちゃん……」
「後でシャーベット持ってきてあげる。楽しみに待ってなさい」

めーちゃんは「寝なさい」なんて直接言わない。
僕が徐々に眠くなるのを待ってくれるのだ。それに気づいてしまってからは逆に寝づらくなってしまったこともあるけれど、
今回ばかりは純粋に身体が休息を欲していた。
彼女の穏やかな鼓動が僕にも伝染し、段々呼吸も落ち着いてくる。
めーちゃんは僕が暑がることを考慮して少し身体を離したものの、ひんやりした手を僕の右手と繋いでくれた。
快適な環境に瞼が重くなって、全ての思考が遠ざかっていく。
そう、それでいいの。その安らかな気持ちを歌に託せばいいんだわ。
その囁きが聞こえた気がしたけれど、僕の意識はそのまま眠りに落ちていった。


目をさますと、頭の奥を蝕む鈍痛が消えていた。
朝の光の中で、もぞもぞと手足を動かす。多少のだるさを差し引いても、身体の調子は大分回復しているようだ。

「治ったの…かな」

小さく呟いた自分の声が明瞭に、いつもの音として聞こえることに自然と顔がほころぶ。
飲み物をこまめに補給しながらなら、午後からでも歌が歌えるに違いない。

どんなに悩んでも、苦しんでも、歌うことが止められない自分は、やはりボーカロイドなのだなと思う。
それだけでなく、歌う楽しさや歌える喜びを知っているからには違いないのだけれど。

「めーちゃん、ありがと」

目の前にある行儀のいい寝顔。その頬にかかった髪をさらりと指先でかき上げた。
うぅん、と漏らしためーちゃんがごそりと寝返りを打つ。その肩に布団をかけ直してやりながら、僕ももう一眠りすることに決めた。


めーちゃんは僕と出会う前のことをあまり話してくれない。きっとたくさんいいことに出会って、幸せな思いもしたけれど、
それ以上に苦労もしたし、辛い目にも遭ったのだろう。

僕がもっと成長できたら、めーちゃんにとってもっと頼り甲斐のある存在になれたら、少しずつ聞きだしていこう。
そして独りで頑張ってきた彼女をいっぱい褒めて、たくさんたくさんありがとうを言おう。
生まれてきてくれてありがとう、そして僕の傍にいてくれてありがとう、と。

そのためにも一歩ずつ乗り越えていかなければ。
おそらく、ゆっくりでいいのよ、と彼女は言ってくれるだろう。
だけど彼女の言葉に甘えたとしても、結局決めるのは自分だからこそ、そのスピードを速められるのは僕自身。

まだまだ頑張れる。このひとが見ていてくれる限りは。

さあ、次に目をさましたときには、シャーベットを楽しみにしておこうかな。


END



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