眠れない夜、暗い昏い闇の恐怖に負けてしまいそうなとき、僕ら兄弟が訪れるのは長姉の部屋。
そこには真夜中でもひかりがある。
昼間太陽のように僕らを照らしてくれるひかりは、夜は暖かい月の明かりとなる。
不安を抱えて逃げ込んできた子どもたちを優しく包み、安らぎを分け与え、穏やかな眠りへと導いてくれるのだ。


きみとぼくと、ひかりと悪夢


おとが、した。
ゆっくりと目を開くと、黒に塗りつぶされた世界の中に薄ぼんやりと本棚やデスクが見える。
ああ、ここは自分の部屋で、今は真夜中なんだ、と認識すると、再び音が聞こえてきた。
扉をノックする硬い音。
今開けるよ、と寝起き特有の少しふわふわとした声で答える。
こんな時間に訪ねてくるのはきっとレンだろう。

そうそう毎晩あることではないのだが、甘えたがりのミクはちょっとしたことがあっても、すぐにメイコのところに駆け込んでいるようで、 レンの手を握り締め、メイコのベッドに上がり込むリンとしばしば鉢合わせすることもあるらしい。

最近のレンはこの家に来たばかりの頃とは変わって、リンに付いていくとき以外はメイコの寝室を訪れなくなった。
代わりに僕の部屋に来てひとしきり話した後自室に戻っていく。
(メイコの部屋に行くのは照れくさいのに、未だに同じ寝室を使っているのだ、この双子は。)

ホットミルクでも用意して、1,2時間付き合うか、とドアノブに手をかけると思いがけず外側から引き開けられる。
そこに俯いて立っていたのは、レンではなく、月のひかり。


「めーちゃん……?…っ!どうしたの!?」
僕を見上げる彼女の顔を見てぎょっとした。泣き腫らした真っ赤な目からは今も絶えずぼろぼろと涙が零れ続けていて、嗚咽混じりの荒い呼吸で身体を震わせている。
「か、いと」
僕の名を呼ぶと、一層それは酷くなり、表情がまた崩れた。
なんて痛々しい表情をしているのだこのひとは。

「っ…!とにかく入って!」
小さく声をかけると、メイコは素直にこくりと頷く。
刺激しないようにそっと薄着の肩を抱き、ベッドに腰掛けさせる。
化粧を落とした顔と簡素な寝巻き姿も相まって、まるで幼い少女のような容貌に戸惑ってしまう。

しゃくり上げながらも徐々に呼吸を整えようとするメイコの背中をさすり、時たま髪を撫でてやる。
僕が取り乱したとき、いつも彼女がやってくれることを単純に真似ているだけだ。
声をかければいいのか、抱きしめてあげればいいのか、正直に言って、どうすればいいのかまったく分からない。

そう、いつもと立場が逆だなんて、滅多にないことで、僕自身がかなり動揺していることに今更ながら気付く。
ただただ、メイコが楽になるように、と念じながら、彼女に触れている手に全神経を集中させて撫で続けた。

「あ、りがと。ごめん…ね。こ、んな時間に…」
微かな、しかし絞り出すような声でメイコが囁く。
「…大丈夫?な、何かあった…? あ! 言いたくないなら別にいいからね…!」
自信なさ気に言い訳を付け加えてしまう自分のかっこ悪さに、心の中で舌打ちする。
こんな事態に遇ったとき、迷える僕たちの不安ごと包んでくれる余裕を持っているメイコとは大違いだ。
逆の立場になった今こそ、彼女の力になってあげなければいけないのに。
安心して寄りかかってもらえる強さが欲しいのに。

差し伸べようと迷って、中途半端に上げたままの僕の手に彼女の手が伸びる。
遠慮がちに僕の手首を掴んだ細い指は、僕の体温より少し冷たい。

「手を、握ってても…いいかしら」
「も、もちろん!僕でよければいつまででも!」
口の中で小さく呟く声に、大げさなほど首を振って答えた。
無言で頷いたメイコは、僕の手を両手で握り締め、胸元に引き寄せる。
確かめるようにぎゅうっと身体を丸めて僕の腕を抱きしめたメイコは、とても小さく、頼りなく見えた。
それでも、僕らの「姉さん」は、呼吸を整え、言葉を紡ごうと必死に葛藤している。
僕は黙ってそれを待った。


「こわい、ゆめをみたの」
ようやく吐き出した言葉が、これだった。

「みんないなくなってしまう夢。起きたら家に誰もいなくて、それどころか、私以外の人がいた痕跡すらなくて」

「空き部屋のドアを、いくつも開けては閉めるの。ここはミクの部屋のはずなのに。ここにリンとレンのベッドがあったはずなのに。
 私の思い込みだったのかしら。私は最初から一人で暮らしていたのだった?」

「そして『ここ』に来たの。カイトならきっと…。私と一番長くいるあんたなら…」

彼女はそこで僕の手を一層強く握り締める。
そんなところに答えなんかないのに、君を助けてあげられる言葉なんてないのに。

「でも、ドアを開けたらやっぱり誰もいなかった。名前を呼ぼうとしたけど、誰の名前も思い出せなくて…。
 私はずっと独りだったんだって気付いて、絶望に泣き叫んで――」

彼女に包み込まれた手の甲に、温かい雫が落ちる感触が伝わる。治まっていた声の震えがまた酷くなる。
胸がぎゅうっと締め付けられるような苦しさを感じた。
何で僕が苦しいんだろう。何で。

「――そして目が覚めた。真っ暗で、何の音も聞こえなくて。いてもたってもいられなくて」

「……それで、ここに来たの?」
メイコが首を縦に振ると、水滴がまたひとつ、ふたつと零れ落ちた。
「ドアを開けたら、夢の続きが、現実になってそうで、恐くて恐くて……。あんたの、声が、返ってきたら、ほっとして涙が溢れてきて…」

「めーちゃん……」
「ごめんね…言葉にしてみるとありがちな、ただの夢なのに。なっ何で、こんなに不安、に…なっちゃ…ったんだろ…」
無理やり微笑んで見せるメイコの姿が、儚く散ってしまいそうで、心臓にずきり、と見えない針が刺さる感じを覚える。

身体が自然に動いていた。
「めーちゃん、大丈夫だから。僕も、ミクも、リンもレンもちゃんといるから。僕らはみんな家族なんだから、どこへも行かないよ」
メイコは僕の腕の中…否、膝の上にいる。
さっき彼女が僕の腕を抱きしめていたように、今は彼女の身体を、丸ごと僕が包み込んでいる。

「そ、うよね。みんな一緒だもんね。一人のときは、こんな感情なかったのに。大事なものが増えたからこそ、喪うのが恐くなっちゃって…っ」
「僕だって…。みんな大事だよ。特にめーちゃんなんか僕が生まれたときからいたんだし。
 僕は一人じゃなかったから、めーちゃんの気持ち、全部は分からないかも…しれないけど…」

「で、でもっ……。ねぇ、いなくなったりするなんて、絶対やだ。考えちゃダメだよ。考えたくないよ」
「カイト……?」

ああ、分かった。今の彼女はいつもの僕なんだ。だから、こんなに苦しいんだ。だから、こんなに辛いんだ。

メイコが赤い目で、不思議そうに僕の顔を見上げてくる。
自身の肩に落ちてきた水滴の正体を探るために。
「な、んで、何であんたが泣いてるの……?」

ああ、最低すぎる。情けない。自分が情けない。
今はメイコを慰めてあげる立場なのに。
男としての以前に、同胞として失格だ。
でも、胸の奥に溜まった澱が溢れてきて、苦しくてたまらない。

「ごめ…。めーちゃんの立場、考えたら…ほんと辛かっただろうって……。僕は、ずっとっ…、めーちゃんがいたから、寂しくな、かった、けど…!
 僕が、一人で生まれてきて、やっと、家族が出来て、そ、れが…突然、な、無くなったりした…ら、て想像したら、どんなにっ…悲しいだろうって……!」

「カイト……あんたって子は……」

結局僕はメイコに甘えているだけなんだ。
ストレートに不安や苦しみを吐き出してしまうのは受け止めてくれる、彼女の存在があるから。
だからこそ、彼女がいなくなってしまうことを想像しただけで、こんなに情緒がおかしくなってしまう。

メイコを助けてあげたい。僕の一番大事な人だから。
彼女の泣き顔なんか見たくない。
幸せになってほしい。幸せにしてあげたい。
それなのに、それなのに、こんなことに気持ちを揺さぶられるなんて、本末転倒もいいところだ。
彼女が不安を吐き出すことで僕がダメージを受けている。
おんなじだから。僕と。僕の不安と同調しているから。


「ありがとう」

ぐるぐる回る思考を、メイコの一言は止めた。

「あんたが私のこと、頼ってくれるから、私はしっかりしてないと、って思える。ここにきて正解だったわ」
「めーちゃ…それって……」

最低だ。

「―――っ、ご、ごめ…ん。頼りなくてごめん……。僕もめーちゃんを、助けてあげたいのにっ…!」
彼女に回した腕に力を込めた。肩口に顔を埋め抱きついているこの状態では決して彼女を宥めて、包容しているようには見えないだろう。
事実、相手の背中を撫で擦る役目は逆転している。
「違うの。いいのよカイト。あんたは立派に役目を果たしてる」
「ど、して……?」
「あんたはね、同調性に優れてるから。人が泣いてたら一緒に泣いて、悩んでたら一緒に悩んで、相手の痛みを分かち合うことができる優しい子」

メイコは僕の髪を撫で、顔を上げさせる。
赤く腫らした目から涙を零しているけど、口元は弧を描き、僕を愛おしそうに見上げている。

「今だって、私の苦しみを半分こして持ってってくれたじゃない。意識してないかもしれないけど、私はそんなあんたにいつも助けられてるのよ。…だからこそ、独りぼっちになる夢がこんなに恐ろしいんだわ」

今メイコの目には、自分と同じように涙に塗れた顔の僕が、呆けたような表情をしているのが映っているだろう。
だって、今の最後の台詞は、僕が頭の中で考えていたこととまったく同じじゃないか。
 
「――こ、こんな僕でも、めーちゃんにとって、必要な存在……?」
「当たり前でしょ。あんた以外の誰にも、こんなとこ見せらんないって」
恐る恐る問いかける僕に、メイコは自信満々に答えて、ぐすん、と鼻をすすり僕のシャツの胸に顔を埋め、涙を拭う。
頼っているつもりが頼られてて、お互いがそんな気持ちで、今までそんな関係でいたなんて。
そしてこれからもそんな関係でいられるなんて。
「いい加減泣き止まないと、明日目が腫れるわよ」
顔を上げたメイコは自分の袖口で僕の目元を拭ってくれる。
「めーちゃん…すき」
「私もよ、カイト」
ぽろっと口から零れた言葉に、メイコは軽く唇が触れる程度のキスで答えてくれた。

「ついでに二つお願いがあるの」
「いいよ。何でも言って」
「一つは…今夜はカイトが私の避難所になってちょうだい」
これはメイコが、僕の部屋に朝までいたいということだろう。
子どもたちが、そしてたまに僕が、メイコのベッドで手を繋いでもらって、眠りにつくように。
「大歓迎。ちょっと汗くさいかもしれないけど」
涙の跡を頬に残したままの二人は、顔を見合わせて笑う。

「ありがと。もう一つは――」
「分かってる。行こっか」
僕はベッドから立ち上がり、きょとんとするメイコに手を差し出す。
「分かるの?」
「分かるよ。僕も同じこと考えたから」

納得したように頷いたメイコは、僕の手を取り立ち上がる。
手を繋いだままの僕らは、ぐっすり眠っているであろう、弟妹たちの顔を見に行くため、抜き足差し足で部屋を出た。

END


泣き虫×泣き虫の組み合わせは正義
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