寒い日が続くから、と買ってきた柚子の香りの入浴剤は、思っていたより気に入った。
身体もぽかぽか温まるし、お湯から上がっても仄かな匂いが鼻をくすぐる。
一番風呂をもらってしまったから、明日はカイトが先に入る番ね。

湯冷めをしてしまう前に暖かいリビングに向かおう。
すでに冷たくなった水が肩口に滴り落ちるのを、タオルでわしゃわしゃと拭きながら戸を開けると、
カイトは一時間前とほとんど変わらない姿勢で、つまらなさそうにテレビを眺めていた。

「もう眠くなっちゃった? お風呂いい香りだったわよ」

ソファの肘掛に頭を乗せ、だらっと寝転がったままのカイトは、頭だけを軽く動かし、んー、と返事をする。
何だかだるそうだ。体調を崩しかけているのだろうか。
夕食のときまではいつもどおりに見えたのだけれど。

「どしたの? 具合、悪い?」

背後からソファの背もたれに手をかける。と、そのわずかに軋む音に反応するかのように、
カイトはがばっと跳ね起き、顔を覗き込む私から後ずさって距離を取る。
とはいえ狭いソファの上だ。上半身を逸らす程度の間合いに、私もぐいっと身を乗り出す。

「ひっ!」
「何よー。 私が何かした?」

私はこの子の気に障るようなことをしてしまったのだろうか。
残念ながら否定の断言はできない。
彼とケンカをしたことなどない。そもそもケンカをするほど打ち解け合う時間を一緒に過ごしてはいないのだ。
言いたいことがあれば遠慮せず伝え合おうと日頃から約束はしていたのだけど。

「えと、そ、じゃなくて、あの……あんまり近づいてほしくないっていうか…あ! 違う! ごめんなさい!!」

私が傷ついたような顔をしたせいだろうか。謝ってくるカイトに、じゃあ訳を話してよ、と口を開きかけたとたん。


ぐうううう。


何とも間の抜けた音が響き渡る。
カイトはもう可哀相なくらいに顔を真っ赤にして俯いてしまった。
――もしかして。

「お腹……空いてる…?」

呟くような私の問いかけに、最近暮らし始めた同居人は、口をへの字に曲げたまま、恥ずかしそうにこくり、と頷いた。


すきっ腹と見栄っ張り


明日の朝食用に準備していた食パンで作ったサンドイッチが、瞬く間に消えていく。
一心不乱にパンを口に運ぶカイトに、時々お茶を継ぎ足してやりながら、
私は頬杖をついて、お皿が空になっていくのを半ば感心しながら見ていた。
男の子なのねぇ、と今更ながらその事実に気がつく。
家族が増えると聞かされて、用意した食器は私が今まで使っていたものと同じもの。
1枚だったお皿が2枚に。1式だったナイフとフォークは2セットに。
目玉焼きは2つに増えたし、ハンバーグの材料も、パスタもそれぞれ倍の量に増えた。
倍でよかったと思っていたのだ。
彼がここにきてから10日あまり、ずっとお腹を空かせていたに違いない。
たまに食後のデザートを出すと大げさなくらい目を輝かせていた理由は、甘いものが好きなだけではなかったのだろう。
思い当たらなかった点には反省するけど、彼の食べる量によっては多少家計の紐を引き締めねばなるまい。
どうなんだろう。細身には見えても、この食べっぷりだと私の倍くらいぺろりといくんじゃなかろうか。
頭の中で、今月の収入を計算してみる。ああ、もうちょっと私の稼ぎが増えるといいんだけど……。

「ごめんねー。気がつかなくて」

他意はなく、純粋に申し訳ない気持ちでぽろっと零したその言葉に、
カイトは、はっと息を飲み、最後の1個になったハムサンドに伸ばす手を硬直させた。

「ご、ごめん、な、さい……」
「え?」

「僕は……仕事もないのに、めーちゃんのお金で生活させてもらってるのに…。
 我慢ができなくて…ごめんなさい……。」

その言葉に今度は私の頬がかっと熱くなる。まるで私がいやいや養っているみたいに言う。
違うのに。我慢だなんて、そんな遠慮はいらないって言ったはずなのに。
考えるより先に口が動いていた。

「あ、の、ね。あんたがうちに来た時点で、食い扶持が増えることは決まってたの。
 それを承知で私はあんたを受け入れたし、あんたもここに来たんだと思ってたのに。
 第一、男と女じゃ食べる量も違うのよね? それを失念してた私の落ち度なのよ。あんたが気に病む必要なんて無い!」

あれ、何で私叱ってるんだろう…。

「でもっ…! 僕だってボーカロイドだ! 一日も早く仕事をもらわなくちゃいけないのに……」
「だーかーらー、それまで私が面倒見るって言ってるの!
 ご飯が足りないのに気を遣ってあげられなかったのは私が悪かったから謝るわ。ごめんね。
 でも、子どもが家計の心配する必要なんてないのよ!」
「……っ!!」

カイトは何か言いたそうな形相でぎりっと歯を噛み慣らしたけど、諦めたようにだんだん視線が下がっていく。
がくりと肩を落として、すっかりしょげてしまったようだ。
ああ、さすがに言い過ぎたわ。沈黙が気まずい。

「あ、あのさ……。私もちょっとお腹空いちゃったかも。良かったら最後の1個……半分こしない?」

おずおずと切り出してみると、しばしの沈黙の後、前髪の隙間から上目遣いで私を見上げたカイトは、
サンドイッチを二つに割り、無言で差し出してきた。今度は視線を合わせずに。
黙々とパンを齧る音だけが響き、残りのひとかけらを口に放り込もうとするころ、一足先に食べ終わったカイトが、かたり、と席を立つ。

「じゃあ、お風呂入ってくる……」
「…いってらっしゃい」
「あ、それと……」

できれば、アイスは3日に1度くらい食べたいな。できればね。
そう言い残して彼はさっと出て行ってしまった。
脱衣所の扉が閉まる音がし、じきにシャワーの音が聞こえ出す。
そこで、ようやく初めてケンカらしいことをしたのだという実感が湧いてきた。
上等じゃない。3日に1回と言わず、2日に1回のアイス代くらい稼いでやるわよ。


それからのカイトは、どんなどん底の状況に置かれても、決して諦めはしなかった。
辛くて苦しくて落ち込んで、何日もへこんでしまうことがあっても、必ず戻ってきた。
そのたゆまぬ努力が今に繋がったのだろう。
現在の彼はとても楽しそうに歌っている。大好きなアイスを毎食食べられるくらいに。



***

「そんなことがあったんだ」
「最初の頃は私もカイトも貧乏してたのよー。おかげで色々学ぶこともあったけどね」
「そっかぁ。オレらはミク姉のこともあったし初めから仕事は多かったもんな」
「てことはさ、カイト兄が頑張ってたのって、やっぱメイコ姉ちゃんのためだよね!」
「そうかしら…。結局はあいつの“歌を歌いたい”って思いが実を結んだんだと思うけど」
「だからさ、それを成し遂げるための目標がメイ姉だったんじゃねぇの?
 カイ兄にだって男のプライドってもんがあるじゃん。
 来て早々子ども扱いされちゃ、見返して女を養うくらいの意地で頑張るって」
「あら、レンも誰かを養ってあげるために頑張ってるの?」
「メイ姉!話そらすなよな!!」

(あれあれ、肝心なとこ分かってないなぁ二人とも。“対等”に並ぶのは目標じゃなくて、スタートだよ。)


「ただいまー!やっと収録終わったよー!」
「みんなただいま。臨時ボーナス入ったから、駅前でケーキ買ってきたよ」

「やった!ほら、メイコ姉ちゃん、レン、ご飯の準備しよっ♪」


END


自分で稼げるようになるまでは養ってあげるから、その分しっかり勉強して自活できるような経験を積みなさい。 ……といったカーチャンのようなメイコ。
くそぅ……!こうなったら一日でも早く対等に認めてもらえるように試験勉強頑張るぞ!……の息子的立場のカイト。
親子と違うのは、一人立ち(家族からの脱却)=一人の男として認めてもらいたいと言った思惑です。
少年の原動力はええかっこしいと下心だと信じています( ゜∀゜)

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