ぽん、と投げ出された空間は、とてもとても広かった。
音が出るのは払い下げのピアノと古ぼけたバイオリンと、私。
キィを叩いて弦を弾いて喉を震わせる。
指を止めて、口を閉じて、目を開けるとそこは空虚なせかい。

音を出す。
眠る。
音を出す。
眠る。

呼ばれる。

眠る。
眠る。

呼ばれる。

また眠る。
音を出す。
眠る。

毎日はその繰り返し。
一年と二ヵ月そうやって暮らしてきた。

そして知った。
一人でいることと孤独であることは全くの別物。

今の私は、ひとりでいたかった。


お手を拝借、返しませんが。


「めーちゃん! めーーーちゃん!! 聞いてよもう! またリンとレンが僕に」
ドアの外からけたたましい足音と情けない悲鳴が響いてくる。

青い弾丸が部屋に撃ち込まれる前に、クローゼットにでも隠れてしまおうと思ったが、一足遅かった。
半泣きで飛び込んできたカイトは華麗なターンで即座にドアをロックする。
「……鍵を掛けたくらいでロードローラーの軌道を阻めるとでも?」
「やめてぞっとする」
扉に背を預けて息を切らしていた彼は青ざめた表情で一足飛びに離れた。

新入りの双子は全力で先住民の生息領域を荒らしにかかってきているようだ。
果たして先刻の来訪者は無事に眠りに就いただろうか。


夕食を終えてしばらくの後、控え目なノックと共に訪ねてきた妹は、困惑した顔でその豊かな緑の髪の半ば頃を両手で掴んで差し出してきた。
サイバーチックな青緑のツインテールの毛先が、ぬばたまの黒に染め上げられているのを見て、さすがの私も絶句してしまう。
「お習字でも始めたの?」
「うん……。リンちゃんとレンくんが」
じわりと涙を滲ませ、健気なミクは唇をへの字に曲げた。
自慢の髪をこんなにされてしまって、さぞ辛かったろう。
しかし少女はぎこちなくも笑顔を作る。
「あのね、リンちゃんもレンくんも楽しそうだったの。ちょっと痛かったけど、わたしお姉ちゃんだから我慢したんだよ」
「ミク、偉かったわね」
頭をぽんぽん、と撫でると、妹はにへへ、と下がり眉のまま微笑んだ。
「いつもお姉ちゃんがわたしの面倒みてくれるみたいに、わたしも二人に優しくしてあげるんだ。お姉ちゃんに褒めてもらったから、わたし頑張るよ!」
あの甘えっ子だったミクの成長に思わずじんとくる。
年長者の私が鏡音ツインズの世話に明け暮れている間に、この子もまた一つ大人になっていた。
「一緒にお風呂入りましょ。髪洗うの手伝ってあげる」
その言葉にぱっと表情を明るくしたミクは、うん! と大きく頷いた。

その後丁寧に洗った髪を二人がかりで乾かして、寝室に送り届けたのが半刻ほど前。
双子へのおしおきは明日に回そうかと思っていたが、その間にターゲットはカイトに替わっていたらしい。

「見てよこれ。信じられない」
彼はげんなりした口調でトレードマークの長いマフラーを見せつけてきた。
幾つもの結び目と、裾にはあちこちにピンバッジが散りばめられている。
生地痛みまくりなんですけど、とぼやく彼には悪いが、ミクへのいたずらに比べるとまだましな方かと思われる。

「あんたも先輩なんだから、びしっと怒ってやんなさいよ」
「んー、まあそうなんだけど、僕には向いてないっていうか……、勝てる気がしない」
「何で同レベルで戦う必要があるのよ……」
こんなだらしなさだから、私が教育全般を受け持つことになる。
ちなみに普段はお尻ぺんぺんで済ますところ、今夜の罪状であれば久々の鉄拳制裁を発動せねばならない。

「いくらなんでも、もう寝た……よね」
「この部屋防音なんだから、出て確かめてきたら?」
「やだよ!」
「……ていうか、何でちゃっかり座ってるのよ」

そろそろ日付が変わる頃。
パワフルな子どもたちでもお布団の誘惑には抗えなかったのだろう。
騒ぎまくっていたカイトが口を噤むと、普段通りの夜の、確かな静けさが戻ってくる。

「うあぁ……めーちゃんいい匂いする!」
「ちょっ! 止めなさいって!」
ゆったりした一人掛けのソファでも、成人男性が無理やり割り込んでくるなんて想定外の事態だ。
ぎゅうぎゅう詰めを余儀なくされ、哀れに軋み声をあげている。
「いいからいいから。もうちょっとそっち詰められるよね?」
「用が済んだなら早く出ていきなさいよ!」
無駄に密着しようとしてくる腕を引っ叩き、肘鉄をお見舞いしてやるがまったく動じる気配がない。
「ずるいよミクばっかり」
「はぁ?」
「僕だって双子に虐げられてるのはおんなじなのに、かたや一緒にお風呂、かたや肘鉄って」
せめて風呂上がりの髪の匂いだけでも堪能させてくれてもいいじゃないか! となおも食い下がる(一応)年長組の片割れに、怒るのも馬鹿馬鹿しくなり私は盛大にため息を吐いた。

コイツはまるで成長していない。
比較的手のかからなかったミクが来ても、やんちゃなリンレンが来ても、相変わらず甘ったれのままではないか。
カイトが来たことで感情を持った私と、私やカイトを見て同じく精神的に成熟してきたミクは、次の後輩の面倒をみるような自我が育ってきたというのに。
(もちろんカイトとてボーカロイドの本分である歌の枠では申し分ない進化を遂げていることは事実なのだけれど)。

初期設定の都合上背丈だって誰より高いし、多分力も強い。
猪突猛進型のイエローズより、きっと私より。

今だって、こうぐいぐい来られると振り払うのは難しい。
席を立ってしまえば逃げられるのだが、自分の部屋なのでそれもなんだか癪に障る。
この大型犬め!

「見て分からない? 私は忙しいの。あんたに構ってる場合じゃないんだから」
これ見よがしにずっと手にしていた楽譜をひらひらと振って見せる。
ミクとお風呂に入って、寝巻に着替えて、冷蔵庫で出番を待っていたビールを一缶持って、自室のお気に入りのソファで、満を持してじっくりと譜読みをしていた最中だったのだ。

ジト目で睨み上げると、一瞬その剣幕に押されたように目を見張ったカイトは、へらへらと緊張感のない笑顔で、私の左手を取った。
「じゃあさ、折衷案で片手だけちょうだい。大人しく降りるから」
何が折衷案なのか全く理解ができないのだが、面倒になった私はうっかり了承してしまった。
それが大きな間違いだったのだ。

ラグマットの上に座り込んだカイトは、さほど高さもないソファに座った私の左手を、最初こそ壊れ物を扱うように柔らかく掴み、しかし徐々に独善的に弄び始めた。
私よりも大きな掌が、体温の高い指先が、皮膚の上を這い回るおかしな感覚。
眼は楽譜を追っているはずなのに、中身が全然頭に入ってこない。
と、前触れもなくすくい上げられた手の甲に口づけられたのには、さすがに度肝を抜かれた。
「なっ!? 何考えてるの!?」
「いいから、譜読み続けて?」
能天気な声色。
だけど、蒼い瞳の奥に、よからぬことを考えているぎらぎらとした輝きを見つけてしまった。

無視を決め込んでいる私の態度に、調子に乗った唇はだんだん上に登って行く。
固い舌先が、辿り着いた腕の内側の柔らかい部分を、くぅっと窪ませ舐め上げる。
その熱いぬめりに背筋がぞくっと跳ねた。
「……っ」
思わず泣き声のような呻きが出てしまい、彼は満足そうに目を細め、それでも優しげな笑みを浮かべたまま。
すべやかな二の腕を指先でこねくり回したり、揉んだり、肘の内側に噛み付いてみたり。
散々翻弄した挙句、指先を絡め合ってくる。
「あれぇ? どうしたの、そんなに顔赤くして」
言われて初めて息を荒らげている自分に気付く。
「ち、が……」
「そっかぁ」
指先を口に含まれ舌の上で転がされ、頭の芯がかあっと燃え上がった。
楽譜は床に散らばり、持っていたペンもいつの間にか震える右手を離れテーブルの上に転がっている始末で。
意識は完全に左手に集中し、心臓がばくばく音を立てて暴れている。

頬が真っ赤に火照っているのはもう痛いほど自覚できる。
ああ、この男はなんて愉しそうな貌をしているのだろう。
本当にいったいどうしてこんなことに。
恨みがましい目で睨みつけることしかできないなんて。

余裕綽々のカイトと追いつめられた私。
その視線が絡み合い、膠着状態が10秒ほど続いただろうか。
カイトの眼がふっと揺れた。
甘えるような、それでいて欲に餓えた、苦しくて切なげな瞳が懇願するように私を射抜く。
「僕だって、いつまでも後輩でいる気なんて――」


ピリリリリッ! と鋭い電子音が緊迫した部屋に響き渡る。
弾かれたように立ち上がった私は、掴まれた手を振りほどき、ベッドのサイドテーブルで振動を始めた携帯端末を引ったくり通話ボタンを押す。
「おー、メイコごめんなこんな夜中に」
あくび交じりのマスターの声が耳元にやんわりと響き、カイトに支配された空気からやっと解放された安堵感にどっと冷や汗が噴き出してきた。
「渡した楽譜、後半のとこちょっと修正があんだわ。ポストに送っといたから」
「すぐ確認しますね」
喋りながらもデータ類の受け渡しに使う玄関脇のポストに足早に向かう。
途中で悔しそうに唇を噛み締めるカイトに思いっきり舌を出して溜飲を下げた。

前言撤回。
一番目に来た後輩も立派に成長している。
そりゃあもう、ずるい大人の男に!

マスターからの電話を切った後、先にシャワーを浴びなおそうかと画策する。
さっきまで熱いものが触れていた左腕は、意外な程ひやりと冷え切っていた。


一人でいるときは感じなかった。
ひたむきで、一心不乱に前だけ見て。
こんなことに心を乱されることなんてなかった。

でも。
「上等じゃない」
もちろん大いに動揺はしたのだけれど。
これでカイトと顔を合わせるのが億劫になったりは多分しないだろう、という予感はあった。
だって、私から避けるなんて圧力に屈したみたいで悔しいもの。
「覚悟なさい。生意気な子にはしっかりお仕置きが必要なんだから」


本当は分かってる。
駆け引きじゃなくて、上下関係でもなくて、もっと別の戦いの口火をあの子は切ったのだと。
もどかしいことに、今の私にはまだ、感情が追いつかない。
だけど、そっちがその気なら受けて立つしかないじゃない。
そう嘯きながら、私はシャワーのコックを控え目にひねった。
流れ出すお湯とともに、ぐしゃぐしゃな気持ちも全部流して、今夜は何もかも忘れて眠りに落ちてしまいたかった。







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「マスター、なんてことしてくれやがりましたか」
「何の話だ」
「せっかくめーちゃんを堪能できてたとこなのに」
「あれかー、最近ちっこいのがいっぱい来たからやきもちでシスコン発動しやがったな」
「誰がシスコンですか安月給。人数増やす前にもっと間取り広く取ってくださいよ」
「分かった。お前の部屋潰してリンとレンに一部屋ずつ与えてやるか」
「どうぞどうぞ。僕はめーちゃんの部屋に入れてもらいますから」
「お前メイコに何かしたのか? やけに通信に出るの早かったけど。あんまり嫌われるようなことすんなよ」
「嫌われるなんて滅相もない。ちょっと左腕を愛撫しまくってただけです。ド健全ですよ」
「うわーないわー引くわー」
「何とでも。どうせマスターには触れられない世界ですから。やーいやーい三次元人ー」
「お前はほんっといらん知識ばっかり仕入れてくるな」
「やーいやーい」
「来週あがる予定だった新曲はショタ主人公に変更してレンにやろう(棒読み)」
「ごめんなさいすみませんもうしわけございませんもうしません」




END


なんと下書きメモは2009年6月ですってよ……(絶望)
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