あなたを初めて見かけたのは確か、5月の頃だった。
店のオープンにはまだ早く、かといって掃除の手を一度止めてしまった以上、することもなく、成り行きで入った路地裏のカフェにあなたはいた。
窓際の席で珈琲を口に運びながら、手元の文庫本に目を落とし、時たま硝子の向こうの街並みにぼんやりと視線を遣る。
有り体に言って人待ち顔に見えたのだが、5分も経った頃合いだったろうか。
あなたは不意に立ち上がり、けして足早ではないにしろ、脇目も振らず支払いを済ませ、猫のようにするりと店を出ていってしまった。
僕は三つ離れた席に着いてからというもの、その一部始終を呆けたようにずっと見ていた。
我に返った時には珈琲はすっかり冷めきり、苦味だけが残るそれを一気に呷り、またマスターにどやされるぞと、駆け足で店に戻ったのだった。



あるとき彼女は言った。
あきらめなさい、と。
時間は平等に過ぎていき、誰もそれから逃れられないのだ、と。
間違ったことは取り消せないし、過去は変えられない。

そしてまたこうも言った。
私は幸せだ、と。
この世の幸せという幸せを千回繰り返した以上のものを味わうことができた、と。
たとえそれが仮初めの物だったとしても。泡沫の夢だったとしても。

彼女の指先は楽器を奏でるように弾み、零れる笑みに憂いなど微塵もなかった。
全身全霊で喜びを表していた。
僕はそれを見ているだけで胸がいっぱいになり、何度彼女の話を遮ってまで自分の腕に閉じ込めようと思ったか知れない。
窓際に飾ったアネモネが咲き乱れる部屋で、僕らは確かに一緒にいたのだった。



「カイトくん、これ薄いわ」
「そんなことないですよ」
「いーえ。私の舌は確かにマスターの配合を覚えてる。そうね、バーボンが11.2%くらい割引されてるのではなくて?」
「いやいやまさか」
内心僕は舌を巻いていた。
マスターが所用で留守にするほんのわずかな時間に、拙いながらもあれこれ酒瓶をとっかえひっかえして作り続けた珠玉の一品。
……のはずなのだが、さすがマスターの味に惚れ込んでうちの専属歌姫になってくれただけはある。
「まだまだ修行が足りないわねぇ」
「それは、ほらあれですよ。あんまり飲みすぎると喉に障るかと思って……」
「馬鹿な子。私の歌は酒焼けも含んで私の持ち味なんだから」
「そういうものですかね」
「そういうものよ」
にっこりと赤い唇が弧を描き、艶のある紅い指先がウイスキーの大瓶をさらう。
その大胆さに似合わず、繊細に傾けられた瓶の口から零れた雫は7滴。
手際よくマドラーで一撫でし、細い棒をぺろりとなぞる舌の生々しさ。
ほらね、これでおんなじ。
得意げなあなたに、僕は両手を挙げて降参するしかなかった。



彼女が突然熱を出したことがあった。
おろおろするばかりの僕に、彼女はただ、歌をねだった。
換え時を失って温くなっていく額のタオルを気にかけながら、果たして僕は安寧のメロディを紡げていただろうか。
気が付くと彼女は、少し苦しげな呼吸であれど、表情は穏やかに眠りについていた。
次に目覚めたときはきっと快復しているに違いない。
そう確信した僕も、彼女の枕もとでそのまま睡魔に襲われていった。
ちなみに目覚めた後、頭痛と咳に苛まれる順番は僕に回ってきてしまったのだが。



「カイトくんはいつからこの店にいるの?」
「……そうですね、7,8年前からでしょうか」
脈絡もなく尋ねられたのは、いつものようにあなたを迎えに行った帰りだった。
あなたの歌に惚れ込んだ常連客の紹介で、近くのバーに出張することがたまにあった。
その夜お開きになったのは日付が変わってしばらく経った頃だったか。
存分に美声を披露して、高級なアルコールも振る舞われたらしく、上機嫌なあなたの足取りは危なっかしく、自然とボディガード役の僕は距離を縮める。
「意外。若く見えるのに」
「若く見えるだけですよ」

歩幅を合わせていたはずのあなたの足取りが急に重くなり、ペースを崩された僕は慌てて足を止めた。
「大丈夫ですか?」
「ごめんね、ちょっと疲れちゃった」
しまった、と内心舌打ちをした。
あなたのステージ用のピンヒールは高く、さほど舗装が行き届いていない路地裏を歩くには難儀しただろう。

視界に入るところにタクシーがいなければ、電話を借りてでも呼ぶべきだった。
歩けるだろう、(この距離なら)。仕方がない、(この時間だし)。
完全に日和った僕の落ち度だ。

「すみません、失礼しますね」
あーあ、擦れて赤くなってる、と腰をひねって踵を見下ろすあなたの背と膝に腕を回し、横抱きに持ち上げた。

周囲と一線を引くように纏った茉莉花のパルファム。
数多の羽虫共がその妖艶な香に酔いしれ、身を焦がす羽目になったであろうことが容易に想像できる。

紅く彩られた唇。
ふらふらと引き寄せられるように重ねると、至上の柔らかさとともに、可愛らしい香りが鼻腔をくすぐる。
触れ合うまで気づけなかった。
あまずっぱくみずみずしい、よく馴染んだそれは。
可笑しなことに、それはイチゴのフレーバーなのだ。
なんと少女趣味な。

礼を失した邪な僕の振る舞いを気にした風もなくあなたは、小首を傾げその紅を引いた口元を無邪気に綻ばせた。
「今日一番拍手が多かった曲、何だったと思う?」

「     」

何と返したかは、忘れてしまった。



僕の一世一代の告白を受け止めてくれた彼女は、程なく僕のボロアパートに転がりこんでくることとなった。
あまりにもほっとけなかったから、との理由だが、だめんずを全力で装った僕の演技力を誰か評価してほしい。

何を作っても絶品なのだけれど、一番得意なのがプリンだってこと。
(そしてキッチンの片付けは僕の方が手際が良かったこと)。
寝るときは左を向いてるけれど、朝になると猫みたいに丸まってること。
寒がりで、部屋の中ではふかふかのスリッパと紅茶のマグカップが手放せないこと。

可愛い所も、我儘なところも、抜けてるところも、僕しか知らない彼女の素の部分が一つ見つかる度に、彼女が僕に少しずつ重なっていくような、気がした。



「カイトくん、君はウイスキーの存在を少し軽視してやしないかしら」
「どうしてそう思うんです?」
「マスターのゴッド・ファーザーを味わってるのなら分かるはずよ。大胆さが足りないわ」
「僕は……、ラムが好きなんです」
「ダイキリばっかり飲んでても一人前にはなれないわよ。カルアもマリブもそろそろ卒業なさいな」
「何故にそれを」
「ふふーん。私意外と酔ってないんだから」
少し頬を上気させたあなたが、アル・カポネのグラスをカチンと爪弾いた。
マスターは一晩留守にしている。
僕がたまに店を切り盛りさせてもらえるようになって半年ほど経った。
裏路地の小さなバーときたら、今夜のような土砂降りでは、僕ら二人だけの夜になってしまう。
薄明りに鈍くノブを光らせたドアは、雨音を遠ざけ、外界から僕らを遮断していた。

「カイトくんは他にやりたいことがあるの?」
座っているのに飽きたのか、カウンターの内側で自ら調合を始めたあなたが不意に僕を見上げてくる。
「何故そんなことを?」
「君はとても真面目だけれど、もう一歩、仕事にのめり込むには迷いがあるように見えるから」
気のせいですよ、と片づけるには彼女は手強い人物だった。
僕自身、何年も続けては行かれない、そんな態度が滲み出ている自覚はあった。


「――ここだけの話、僕も昔は歌を歌っていたことがあるんですよ」
「ま、そうでしょうね」
「驚かないんですか?」
「だって、私が歌ってるときいつもすごい真剣な顔してるもの。普通はさ、リラックスして身を委ねるものなのよ?」
「お恥ずかしい限りです」
「まるで音を咀嚼して味を発(あば)き出そうとしてるみたいにね。いっそ暴力的なくらい餓えたカオしてるの、自分で分かってないのね」
「同業、でしたから」
「あっははは! 馬鹿な子」

蓮っ葉な物言いをし、明け透けな立ち振る舞いで、人目をはばかることなく大きく口を開けてからからと笑う。
しかし、それは不思議と嫌悪感を催すものでなく、むしろ彼女の魅力を貪欲に引き立てている要素であり、言わばコケティッシュ〈蠱惑的〉な引力を持っていた。

突然胸がぎゅうと締め付けられ、僕はたまらずあの時と同じように、あなたの肩に触れる。

「メイコさん、僕は――」



「あきらめなさい」



ああ、思い出した。このひとは。

「彼女はとっくにしんだのだから」

目の前のあなたは、情感を込めずそう告げた。
しかしその眼に宿るいたずらな輝きだけは、彼女のそれとよく似ていた。

「ええ。分かってます」

彼女は、あのひとは。
あなたと同じ顔で笑い、同じ顔で歌い。
そして。

「あなたと同じ声で、そう告げていきましたから」





Casablanca








天性の歌姫だった彼女と、転生の歌姫として現れたあなたの話
*カサブランカのカクテル言葉 甘く切ない思い出

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