卑怯にも長いです。ご了承ください。



***

めーちゃんは、帰ってきた。
服も髪もぼろぼろで、酷い怪我をしていた。
出迎えた僕の腕の中に倒れこんだその体は、じっとりと熱く、対照的に僕の背筋をぞっと冷やしていく。

「めー…ちゃ……」

喉がからからに渇いて声がうまく出せない。
止まってしまった思考を急かすように頭ががんがんと痛む。
どうしよう、早く、早く何とかしなくちゃ。
最悪の事態は免れたのに。めーちゃんがいない間に、"めーちゃんが帰ってきたらすること"なんて百も二百も考えていたのに。

腕の中のメイコが小さく呻き、身を捩じらせる。
その瞬間、呪縛が解けた。


留守番奮戦記 前編


よく晴れた日の午後。久しぶりの家族揃ってのショッピング。
PC内の天気とは風の流れ。すなわち通信速度の速い今日は、身も心も軽くなり、
世界中どこにだって行けてしまうような、うきうきした気分に足取りも弾む。
僕らが住むPCと電脳空間をつなぐ、ネット回線の入り口を目指し、5体のボーカロイドは思い思いの歩幅で街道を歩く。

「ねーねー。お休みはいつまで?」
「マスターが帰ってくるまでだから3,4日くらいかな」
「じゃあそれまでみんなで毎日遊べるねっ!」
「歌の練習も毎日欠かさないようにしなくちゃ」
「もちろん!分かってるよー」

きゃいきゃいとはしゃぐミクとリンの後ろを着いていくレンは、
退屈そうな顔をしているが、時たまツッコミ役として口を挟んでいる。
何だかんだ言って遊び盛りの子どもだ。
臨時の長期休みを楽しみにしていないはずがない。

「めーちゃん、明日から何して過ごそっか」
「そうねー…。この機会に模様替えでもしちゃう?ミクが本棚欲しいって言ってたの思い出したわ」
「んー…それも大事だけど、もっとこう、連休らしいことをさ―」

他愛もないやり取りを遮ったのは、メイコがはっと息を飲む音。そして。

「リン!!」

僕を突き飛ばす勢いで走り出したメイコが、リンを抱きかかえて地面に倒れ伏すのと、歩道に銃弾が突き刺さるのは同時だった。


「めーちゃ「みんな伏せて!」
その鋭い声に反射的に従い、ミクとレンを引っ掴み自販機の陰に押し込む。

5秒…10秒…
ようやく異変に頭が追いついた二人が悲鳴を上げるのを、口を塞いで止める。

20秒…30秒…
リンに覆い被さったまま息を殺しているメイコの右肩から流れ出す血が、じわじわと歩道に染みを作る。

1分…そして10秒…
「めー…ちゃん」
「黙って」
握り締めた拳が震えた。このままじゃ手遅れに…――!

2分…3分…
「カイト、ミクとレンは?」
ふいに体を起こしたメイコは、反対側の歩道から目を離さずに僕に問う。

「平気。それよりめーちゃんの傷が!」
二人を解放し、メイコに走り寄る。
表情を強張らせたままではあるが、リンも無事なようだ。
「お姉ちゃん!」
メイコは半泣きのミクの頭を優しく撫ではしたが、傷口に宛てようとハンカチを持った僕の手は、つい、とかわし、
逆に僕の手首を掴む。

「いい?よく聞きなさい」
低い声が耳元で囁く。視界の隅に入る、肩を掠った銃創が徐々に修復されていくのが見え、少し安堵したのに。

「今すぐ子どもたちを連れて家に帰りなさい。フォルダのセキュリティ設定は最高にプログラムして。
 何かが来ても、子どもたちが出たいと言っても、絶対に開けないように」
「ちょっと待って!何をする気!?」
心臓がぎゅっと縮む心地がした。僕の目を真っ直ぐ射抜く長姉の瞳には迷いがない。
嫌な予感がする。いやな…。

「また連絡する」

「めー姉!!」
「お姉ちゃん!!」
普段なら弟妹たちの呼びかけを無視するなんて絶対にありえないのに。
有無を言わさず踵を返したメイコは、ガードレールを飛び越え、対岸の歩道の奥、狭い路地へと姿を消した。

「…っ!!」
ぐぅっとせり上がってくる唸り声を噛み殺す。
ずるい。何てずるいやり方だ。
子どもたちをここに置き去りにして追いかけられる訳がないことを知っていて。


「…リン、立てる?」
へたり込んだままの末妹のそばに膝をついた。
「カイト兄…どうしよ……あいつ、ウィルスだよ!メイコ姉ちゃん怪我して……!」
「大丈夫…。ちゃんと自己修復機能が働いてたから。僕らは早く安全な家に帰ろ?」
「でも…」
「めーちゃんは平気だよ」
さあ、と僕は一方的にリンの手を取り立ち上がらせた。

「ミクとレンも、走れる?」
真剣な顔で頷く二人に笑って見せ、リンを抱きかかえた僕はホームフォルダを目指して走り出す。
ポケットには地面から穿り出した弾丸がくるまれたハンカチ。
ウィルスだ。ウィルスが含まれている。内部に入り込まれたら感染の危険を伴うもの。

めーちゃん。めーちゃんめーちゃん。何て事してるんだ。
リンに見られないように奥歯をぎりっと噛み締めた。

そして僕は、一時的に感情を殺す。
家族を助けるために。自己保身のために。


1時間…2時間…
フォルダ全体のセキュリティを最高に設定。
データの出入りはかなり制限された。

5時間…10時間…
沈み込むリンとレンに時たま声をかけながら、ミクが家事に勤しみ始める。
VOCALOID MEIKOの識別データを登録。
これでメイコはフォルダに入ることができる。
もっとも「感染していない」ことを大前提においての話だが。

12時間経過…
不安で眠れないミクたちを宥めて、居間に毛布を用意する。
手をつないで眠る3人を見届け、ウィルスの解析に取り掛かる。
メイコは帰ってこない。

18時間経過…
VOCALOID KAITOの識別データを登録。
フォルダ間における僕の出入り制限を外す。
子どもたちが寝ている間にフォルダの周囲を偵察。
今のところ変わった様子はない。
メイコは帰ってこない。

1日経過…
フォルダの外に探知機を設置。
このフォルダから一定範囲内のデータに動きがあれば検知する。
もともとマスターが留守にしているため、ほとんど動きがない。
メイコは帰ってこない。

2日経過…
ミクに家事を一任し、自室で作業を進める。
探知機に引っかかるのは常時稼動しているソフトのみ。
メイコはまだ帰ってこない。
このPC内にいるかどうかすら怪しい。

3日目
作業に遅延なし。
メイコは帰ってこない。


「お兄ちゃん…」
控えめなノックの音がした。
ミクが食事を持って部屋に入ってくる。
「ミク、長い間すまないね」
デスクにトレイを置いてくれた妹の頭を撫でる。
いつもならはにかんだ笑みを見せてくれるのに、その瞳は憂いを含んで伏せられたまま。
「どうか、した?」
ミクは少し考えるように僕の顔を見つめ、首を横に振った。
「何でもない。頑張ってね!」
妹は場違いな明るい声で笑い、ぱたぱたとスリッパを鳴らして出て行く。

ミクにも分かっているのだ。
僕が無理やり浮かべている「兄らしい笑顔」が虚ろなものだということ。
やつれて目の下の隈が取れない顔では当たり前だ。
そして、姉の安否を尋ねたとしても、答えられる訳がなく、根拠のない「大丈夫だよ」が返ってくること。


まだメイコが一人だった頃のことを、僕はそのすべてを知っている訳ではない。
それでも、メイコが有害なウィルスとやりあえる裏技を少しばかり知っていること、
そして彼女の危険察知能力がずば抜けて高いことは事実だ。
僕がここに来たばかりの頃、彼女は僕の目の前でその技を披露してくれたことがあった。
人間で言うところの足を破壊されたウィルスは動きを封じられ、メイコに僅かに遅れを取ったものの、
ウィルスを検知したアンチウィルスソフトの剣の錆となった。

だが、それっきりだ。それ以降このPC内で僕らに害なす存在に出くわしたことはない。
ネットを通じて電脳空間に出かけた際に、ウィルスを見かけたら近寄らずに全力で逃げること、
とメイコは過剰なまでに子どもたちに言い聞かせて、勉強させていた。
初めてウィルスの襲撃を受けたリンでも、存在を認識できるほどに。

あの銃を持ったウィルスがどうやってここにやってきたのかは分からない。
しかしその構成や影響は未知のものではなかった。
つまり、分析の結果次第では対策が立てられる可能性がある。

ソフトウェア…特にVOCALOIDのように人型を模している存在には、ウィルス感染は毒が回るように効力を発揮する。
外装を破壊され、ウィルスに進入されると、現れる効果の差異はあれど、最終的には機能停止に陥ってしまう。
毒の塗られたナイフや弾丸で傷を負うと、その毒がいずれ脳や心臓に回り、死に至るように。

メイコの撃たれた肩には自己修復機能が働いていた。
おそらく感染は免れたようだ。
遅効性のウィルスや偽装ウィルスならば、リカバリー機能を欺き増殖することも可能だろう。
しかしあのウィルスにその心配はないようだ。
何故なら―――


「……ぅ…っ!」
突然額にしびれるような痛みが走る。フォルダのセキュリティや探知機に変化があったとき
リアルタイムで確認できるように、直接僕の回路に信号を送る設定をしていたのだ。
この強い刺激は、AAAの重要度を持つ探査結果を報告するもの。
つまり、

「めーちゃん!!」

眼前のモニタに映し出されたフォルダの玄関。
足を引きずりながら近づいてくるその姿。
信号を送り続けるヘッドセットを投げ捨て、僕は部屋を飛び出した。


***
「お兄ちゃん!!」
メイコの部屋から出てきた僕は、待ち構えていたミクとリンに詰め寄られる。
「お姉ちゃんの怪我はどうなの!?」
疲労と憔悴が色濃く浮き彫りになったその顔は、アイドル歌手として持て囃される少女ではなく、
幼さの中にも筋の通った責任感を感じさせる、兄を支える年上の妹のものだった。
「カイトにぃ…ごめっ…ごめんなさいごめんなさい…!
 リンの、リンのせいで…ぅっ…うえぇ…っ!!」
僕の腰に抱きついてきたリンが、堰を切ったように泣き出した。
その頭を精一杯優しく撫でて、くしゃくしゃになったリボンを整えてやる。
「リン。リンは悪くないよ。めーちゃんも大丈夫だから心配しないで」
ずっと自責の念に駆られていたのだろう。
家の中がしんと静まり返っていたのも、 我が家一の元気娘が黙り込んでしまっていたせいだ。わあわあ泣き出すリンの声が懐かしく思えた。

「ミク」
僕はつられて泣き出しそうなミクの肩に手を置く。
「めーちゃんのことは、僕が見とくから。今日は早くお休み。明日になればお話できるようになるから」
指先で目の下――僕と同じく消えない隈と、涙の跡を軽くなぞると、上の妹は無言で頷いた。
僕のコートに涙と鼻水の染みを作ってくれたリンにちらっと目線をやると、
リンちゃん、行こ、と聡いミクはリンの手を引き、寝室へ連れて行く。

「レンも。めーちゃんすぐによくなるから、今は部屋で待ってて」
「……約束?」
「もちろん。約束する。今は僕に任せといて」
「………。絶対だかんな」
廊下の突き当りから僕らの様子を遠巻きにうかがっていたレンも、素直に部屋に戻っていく。

彼女を保護してそろそろ3時間ほど経った。
治療を始める前……ベッドに運んだ時点で意識を失っていたメイコは、
時折眉をしかめたり、指先を震わせるようにまでなってきた。
目覚めは近い。
その希望的観測の元、僕はキッチンに水を取りに向かう。
メイコの身を案じていた3人には気の毒だが、今の彼女はとても会わせられる状態じゃない。
深い傷口に、僕でさえ手当ての途中で何度か目を背けたくなるくらいだった。
水差しを片手に、寝室の扉を開く。
果たしてそこには、上半身を起こし空ろな目で宙を見つめるメイコの姿があった。

「めーちゃん?」

返事はない。
水差しをベッドの脇のテーブルに置き、ついでに顔を覗き込む。
焦点が僕の瞳に合わさることはない。
ふぅ、と小さく息を吐き、緩慢な歩みでドアに向かう。
かちりと音を立てて鍵を閉め、振り返った。

「調子は?」
「……」
やっぱり返事はない。

「何で…――」
少し細められた彼女の目。違うのはその琥珀色の数。
堅く閉ざされた左目は白い布の下。

メイコは帰ってきた。
傷の手当をした。
命の危険は去った。
これ以上彼女が傷つくことはない。
これ以上彼女を傷つけさせない。

もうできない。もう我慢はできない。


「何で一人で行った!!?」


冷たい部屋に僕の怒号がぶちまけられる。
感情に任せて大声を出したことなんてきっと初めてだ。
でも、どうしても堪え切れなかった。
止められなかった。
許せなかった。

「メイコが、一人で背負いこむ理由なんて、ない。 
 ――僕が…、ついていれば、もっとうまい対処法もあったはずだ」 

低く声を抑えようとしても、語尾が震えた。
掌に食い込んだ爪が折れてしまうほど強く拳を握り締める。

「――そんな…」

「そんな酷い怪我だって、絶対にさせなかった!!」

茫洋とした彼女の瞳に映る僕の顔は、どんなに醜いことだろう。
肩で息をし怒鳴り散らし、獣のように歯を剥き出して、傷ついている彼女に、怒りに任せて苛立ちをぶつけているだけだ。

本当は分かっていた。責めるべきなのは、助けてあげられなかった僕自身。
悔しかった。ただ黙って見送ることしかできないことに。
その結果、僕の大事なひとは、一時的にではあるが視界の半分を失い、片腕に深い裂傷を負った。
白い肌のあちこちが青や黒い痣で彩られ、未だ閉じきらない傷口からは赤い血が滲み出て、包帯を染める。

そろそろと手を伸ばし、止血帯の上から傷口に触れる。
メイコは微動だにせず、光のない目で僕の動きを追うだけだった。
急激に怒りの感情が霧散し、代わりにこみ上げてきたのは、無力感。
やるせなさに、自嘲の笑みがこぼれてくる。
彼女の意識は、視線は僕のことを見ていない。
僕の存在など空気であるとでも言うかのように。

「…ねえ、そんなに僕のことが信用できないの?」
行き場のない衝動が、少し強めに彼女の腕を押さえつける。
跳ね除けてもいい。嫌悪に顔を歪められたっていい。
後で謝るから。何度でも謝るから、僕の方を見て欲しかった。
メイコは傷の痛みに、ぴくっと頬を引き攣らせる。

それだけでもう、押さえが効かなくなった。
きい、とベッドが僕の重さに不満を漏らす。


――耳元で聞こえるメイコの声。紡がれる言葉は。

「…か、いと……?」

ああ、僕の名前を呼んでくれた。僕がここにいることを認めてくれた。
腕の中に収めた華奢な体は、いつもより熱くて、薬と鉄の匂いが仄かに漂ってくる。
ごめんね。ごめんなさい。僕らの代わりに痛い目に遭わせて。
理不尽に怒鳴られて。辛い思いたくさんさせて。

「もっと…」

「もっと頼って、よ…!な…んの、ために…いるんだよ…っ!!」

涙と共に吐き出した言葉は、到底頼り甲斐のあるものなんかじゃなくて、自分の包容力の欠乏具合に情けなくなる。

何でもするから、痛いことも汚いこともやるから。
めーちゃんがこれ以上傷つかずに済む方法を教えて。
そして、僕の存在意義を教えて。

「馬鹿ねぇ…」
泣きじゃくる僕の背に暖かいものが触れて、どきっとする。
落ち着かせるような手つきで優しく撫でられ、耳元で囁かれる甘やかな声。
「ちゃんと頼りにしてるわ。“お兄ちゃん”」

その声が聴けるだけで、僕に向けられていることを感じるだけで、嬉しくて、嬉しくて死んでしまいそうだ。

僕を柔らかく包むその存在は、とてもとても尊いもので、けっして失くしてはいけないもの。
だから、僕は行かなきゃならない。復讐戦(リベンジ)の始まりだ。


でも。

でも、もうちょっとだけ、泣き虫な弟でいさせてください。



後編に続く
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