***

白い霧の中を彷徨うように、鈍重に粘つくような思考が次第に明瞭になってくる。
あまり長い間眠っていた訳ではないが、ひとまず目先の緊張がほぐれた状態での深い眠りが、疲労の回復には役立っていたようだ。
隣で寝息を立てるメイコの髪にそっと触れる。
あどけない少女のような寝顔と、無防備に僕に触れたままの腕、太腿。
色が変わるまで痛めつけられた肩の打撲の痕に軽く口付けた。

3日。その間メイコはずっと戦っていた。
傷を負う恐怖と、敵に背を向け逃げ回る疲労感と、
いつ寝首をかかれるかも分からない状況で、肉体を休ませるために神経をすり減らす緊張状態と。
せめて今だけは、今だけはぐっすり眠っていてほしい。

本当はこのまま行ってしまいたかったけど、彼女の傷の手当は僕がしてやらねばなるまい。
黒ずんだ赤が染み出した包帯を替え、薬を塗り直そう。

夕べ使った応急手当用のキットをベッドに運び込み、彼女の腕を取る。
痛みを感じさせないよう、細心の注意を払い、傷口を露わにすると、メイコを運び込んだ時の記憶がよみがえる。
体中傷だらけなのに、ウィルスと戦ったはずなのに、驚いたことに感染の兆しは見当たらなかった。
これもメイコの持つ裏技を駆使した結果なのだろうか。

しかし肉体的なダメージを負っていることには変わりはない。
ソフトとして稼動することができないほどの損傷を受けた場合は、人間でいうところの死を迎える。
まったく無茶をしてくれたものだ。長姉の無鉄砲ぶりには呆れてしまう。

「何がおかしいの?」
目を閉じたままのメイコが詰るように口を開く。

「ごめん。起こしちゃったかな」
「あんたと同じくらいのタイミングで覚醒してたわ」
「めーちゃん、まだ本調子じゃないんだから、ちゃんと寝ててください」
「いつ起きてようが私の勝手よ」

それっきり静まり返った部屋には、僕がメイコの包帯を替える音と、時たま薬のビンを扱う音だけが続く。

「ご苦労様」
「どういたしまして」

パタンとキットの蓋を閉じると、メイコがほんの少し表情を和らげた。つられて僕も笑顔になる。
メイコの傷は安静にしていれば日常生活にさほど支障も来たさず、じきによくなるだろう。
おとなしく寝ていれば、子どもたちが起きてくる時間には、面会できるはずだ。
ミクとリンは泣いたり謝ったり世話を焼きたがったりして、かなり賑やかなことになりそうだけど、
その方が精神衛生上治りも早くなるに決まってる。


「――それで、あんたはどこへ行こうっていうの?」

めーちゃんには敵わないや。
はは、と苦笑しながら、立ち上がろうとした僕は振り返る。
僕の服の袖を掴むメイコの手をとり、ぺちりと僕の掌と重ね合わせた。

「バトンタッチ」
「ふざけないで」

「冗談じゃない。僕は本気だよ」
「あんたが行って何が出来るの」
「少なくとも手負いのめーちゃんよりは、いい働きが期待できると思うけど?」

へらへら笑う僕の顔なんて、心底信用していないと言いたげな目だ。
それともプライドを傷つけるような分かりやすい挑発に乗ってくれたのか。

「それじゃ、ドアはロックしておく。外からしか開けられないから、ミクたちがくるまで休んでてよ」
「……」

ひらひら手を振る僕を睨みつけるメイコの目の縁に、薄い膜が張る。
非常に心苦しいところだが、彼女を守るためには仕方がない。
激励の言葉くらいかけて欲しかったな、と思いつつ、彼女に背を向けた。


ドアノブに手をかけ、扉を開こうとしたその時――


「か、いと…カイト!…っ!うぐ……ぅああっ……!!」


メイコの苦しそうな悲鳴と、どさりという音に振り返る。
ベッドの上で体を丸めたメイコが荒い息で体を痙攣させていた。

「…っ!?めーちゃん!?」
さっと血の気が引いていく。引き返さないなんて誓いはふっ飛ばし、急いで走り寄り、うつ伏せの体を抱き起こす。

「めーちゃん、苦しいの!?どこが痛いのっ!?」
拒否反応を起こすような薬は使っていないはずだし、ウィルス感染も見つからなかったのに。
呻きながらびくびくと体を震わせるメイコに、僕は何をしてあげられる…?

「カイト…」
「めーちゃん!なに?どうしたの?」
はあはあと吐き出す息に混ぜ、メイコは僕の名を呼んだ。
その声を聞き取るために顔を近づけると、首筋にぎゅうっと抱きつかれる。
「めい、ちゃん…?」
「ぃと、かいと、カイト、カイト…」
祈るように、救いを求めるように、呪文のように、メイコはただ僕の名を繰り返し呼ぶ。
それは幼子が駄々を捏ねるのに似て。稚拙な我侭を通そうとするのに似て。
メイコの意図を理解した僕は、行き場をなくし宙を彷徨っていた手で、メイコの背中を擦ってやる。

肩にかかっていた重圧がふっと消え、唇に柔らかいものが押し当てられた。
軽く開いた歯の間を割って入ってくるメイコの舌を、僕は黙って受け入れる。
舌を絡ませあいながら、指先で彼女の涙を拭い取り、背中をぽんぽんとあやすように叩いた。

めーちゃん、僕だって本当は行きたくなんてないよ。
でも、今動けるのは僕だけなんだ。僕が行かないと、今まで通りの生活が、壊れてしまうんだ。
だから……。

引っ切り無しに続く水音の中で、お互いの熱と唾液を交換し合い、混ぜ合わせながら、どれほどの時間が過ぎただろうか。
唐突にメイコの唇が離れ、つぅっと銀糸が舌同士を伝う。
弾む息が二人分、静寂の中に響き渡る。
ぼふっという柔らかい感触を後頭部に感じ、僕はメイコに押し倒されていた。

めーちゃん、よかった、と言葉を発しようとして、口の中に溜まったものを飲み下す。
と、喉元を滑り落ちる小さな固体の感触。

「めー、ちゃ…?」
「卑怯な手を使って悪かったわ。でも、これは私の仕事なの」

体に力が入らない。すぐ近くにいるはずのメイコの顔もかすんでよく見えない。
目蓋が、重い。

「ま、すいやく…なんて…」
「私の手当てをするために用意してくれたのよね。必要なかったからって
 枕元に置きっぱなしにしてたのは、あんたの落ち度よ」
メイコは泣き笑いのような切ない表情でくしゃっと笑って見せた。
しまった。傷口の縫合の際に要ると思って準備したのだけれど、意識のないメイコに使うことはなかったのだ。

僕の上に跨り肩を押さえつけるメイコは、僕なんかよりずいぶん軽いはずなのに、
どうしても払いのけることができない。

「あんたが飲み込んだのは、溶け残りの欠片。もう遅いの」

ちくしょう、動け、動け腕。舌打ちさえも、もう、できな、い。


子どもたちのこと、頼むわよ。“お兄ちゃん”。
その言葉を最後に、僕の視界は暗闇に沈んだ。


留守番奮戦記 後編


***

マスターが私をここに連れてきたとき、まだ生まれたてで知識のない私と同じく、マスターもまたパソコン初心者だった。
音楽好きで、自分一人で作曲できるDTMに興味を持ち、総合楽器としてPCを購入したマスターのパソコンは、
好奇心で繋いだネット経由で、当時たくさんのウィルスが闊歩する無法地帯になっていた。
メーラーとエクセル、そして彼の大事なミュージックフォルダが犠牲になった頃、
ようやくマスターはセキュリティソフトの重要さを思い知ったらしい。
すぐに導入されたアンチウィルスソフトが、悪漢どもを屠っていった。
ただし、潜伏性のある知能犯たちを捕まえることは難しい。
現行犯逮捕しない限りは、いつまでも逃げ続けられるはめになる。

私はこのパソコンで唯一の人型のソフトウェアだった。
人を模した姿形はもちろん電脳世界の中だけにしか通用しない概念的なものであったが、
人を真似た感情は、私に自己保身の行動を取ることを許した。
安全に暮らしたい。平和な場所で歌を歌いたい。
その本能的ともいえる願いをかなえるために、私は学習し、外敵に対抗する知恵を得た。

いわゆる「警察官」になった私は、時間のあるときにPC内をパトロールし、怪しいウィルスを捜した。
私の尾行に気づいた「犯人」は敵対行動を取る。
ある程度相手をして時間を稼いでいるうちに、騒ぎを聞きつけた「執行人」が駆けつけてきて、犯人を削除するのだ。

こうして一年足らずの間にPC内の犯罪者はほとんど駆逐された。
カイトがやってきてから一度相手をしたウィルスが最後だと思っていたのに――。

思うに、おっちょこちょいなマスターは、長期で家を空ける今回、
セキュリティソフトの更新を後回しにしたか、電源と一緒にオフにしてしまったのだ。

そして私たちを襲ってきたあいつは、そのことを知っている可能性が高い。
案の定、発砲沙汰になっても執行人は現れなかった。
自分から打って出てくるほどの馬鹿ならば、何年もの間逃げ続けられる訳がないし、
おそらく私がどんな存在なのかも知っている。
だからこの機会をずっと狙っていたのだ。

結局のところ私が食い止めるしか生き残る道はない。
ホームフォルダに奇襲をかけられたりなんかしたら、一巻の終わり。
犠牲になっていいひとなんて、このPC内には、私の家族には、ただの一人だっていない。

あいつに対抗できる知識と技を持っているのは私だけ。
そしてあいつが最優先で狙うのはきっと私。
過去の戦歴で傷を負ったこともある。駆けつけた執行人の処置で大事には至っていないし、
ウィルスに対する免疫も僅かながらついている。
だからこそあいつにとって私は厄介な存在であり、執行人の助けが見込めない今は絶好の襲撃チャンスだ。

今回負った手傷はさすがに多かった。自己修復機能が追いつく暇もありはしない。
丸一日、廃墟になったフォルダに潜伏し、感染の痕跡がないことを確認して、ホームフォルダに一時退避した。
精神回路がオーバーヒートする限界まで粘ったから、治療はカイト頼みだった訳だけど、
期待通りの働きをしてくれて、本当に助かった。


カイト――、私の次にここへきた人型ソフトで、新型VOCALOIDたちの兄ポジション。
性格は穏やかで気が利くけど、スキンシップの大好きな甘えん坊。
私が一番信頼の置ける人物で、多分お互いに好き合っている…のだろうと思う。
過剰なまでに私の身を案じていることが予想できたので、抜かりなく罠にはめてきた。
私も彼も、弟妹たちのことを溺愛と言っていいほど大事に育てている。
私に何かあっても、彼には生き残って弟妹たちを守ってもらいたい。
そばにいてやってほしい。

執行人が駆けつけるまで、早くて数時間。遅くて数日。
その間、一番狙われる危険性と、一番対抗できる力を持った私が相手をし続けるのが理にかなう。
逃げ続けるのにも限界がある。その前にホームフォルダを見つけられてしまったら――
いちソフトウェアであるカイトの組んだセキュリティプログラムなど紙に等しい。


「そういう訳だから、ゆっくり相手をしてもらうわよ」

銃を持ったあいつが、ゆらりと振り返る。


「ただの娯楽ソフトの分際で、よくもこんな小細工ができるものだな」
「今まで執行人の目をかいくぐって来たウィルス様が、こんな単純な手に引っかかるなんてね」

ざらざらと耳に障る声に答えながら、入ってきたばかりのフォルダの入り口を閉じる。
このフォルダはこれで隔離された。

「まあいい。血の匂いを嗅ぎつけるまで随分かかったが、そちらから仕掛けてくるとは好都合」
「ここから出られないのはあんたも私も一緒。隠れる場所だけは豊富だから、なかなか楽しめそうね」
言い終わらぬうちに、私は移動を開始した。
飛び道具相手に正面から挑むのは、啖呵を切るときだけでいい。

このフォルダは昨日まで私が隠れ家にしていた廃墟。
ただしここに至るまでの道、けして同じ順路はない。
ショートカットを駆使し、遠回りと近道を繰り返してたどり着き、
その痕跡を消しつつもさりげないヒントを混ぜておいた。
私がホームフォルダで休息をとっている間、あいつは私の足跡や血臭を嗅ぎ回り、
最下層に移動させたこのフォルダを見つけ出した。

ちなみにデスクトップにはここへのショートカットを細工付きで貼っておいた。
見慣れないショートカットに帰宅したマスターが気付いてくれることを見込んでいる。
「クリックしても繋がらない」偽装ショートカットキーを不審に思ったマスターが
セキュリティソフトを起動させてくれるまで、私は耐えればよいのだ。


打ち捨てられたプログラムや壊れた拡張子の影を縫うようにして距離をとる。
少し離れたところの画像ファイルが轟音と共に砕け散り、黒い塊に再編成されていく。
続いて後方。一瞬前まで私が隠れていた、くしゃくしゃのメモ帳が燃え上がった。
手当たり次第の攻撃には、いずれ足止めを食らってしまう。
その前にどれだけ距離を取れるかが勝負なのだけれど……。

バシュッと音がして足元のスクラップが抉り取られる。
宙に浮いた黒い塊が私を捕捉していた。
続いてもう一発。横っ飛びにかわし、そばにあったファイルの影に転がり込んだ。
腕の傷が衝撃に鋭い痛みを伝えてくる。

「…邪魔だわ、これ」
小声で毒づきながら、左目を覆う包帯のテープに爪を立てた。
するすると白い布を剥ぎ取り、目に当てられた眼帯を外す。
カイトの丁寧すぎるほどの手当てのおかげで、目の上の腫れは大分引いていた。
久しぶりに冷たい外気に晒された左目をゆっくりと開く。
ぼやけた視力が右目に追いつくまでしばしの時間を要したが、機能はほぼ回復している。
広がった視野で、攻撃を仕掛けてきた塊に狙いを定め、ファイルの破片を投擲。
鋭く尖ったそれは、吸い込まれるように動力源――ウィルスに操られた中核を貫いた。
活動を停止し、地面に落ちた元プログラムは0と1に分解され視界から消え去る。

ごめんね。元々同じマスターに仕えるパソコン内の、同志だったもの。
いくら壊れて使い物にならなくなったからとはいえ、静かに消去されるのを待つところを、
ウィルスに操られて仲間と戦うなんて、浮かばれない最期だったろうに。

「……ふざけんじゃないわよ…!悪党め!」
私のぼやきが通じたかのように、汚い声をしたあいつの悲鳴がそう遠くないところで響く。
しかけておいた地雷に引っかかってくれたらしい。
地雷といっても私の知識と技術じゃ、本体相手なら表面を僅かに削り取るくらいのものしか作れない。
相手の場所の把握のためと、ダメージの蓄積を狙うくらいの効果しか期待はできないが、
直接対決を仕掛けるためには、まだ体力を温存しておかないと辛い。

しかし、私の攻勢も長くは続かなかった。
もう一距離取るために次の遮蔽物として選んだファイルは、既に汚染されていたのだ。
ジャッと音を立て伸びる影は、私の身体に巻きつき逃亡を妨げる。
細く尖った先端は獲物を突き刺すために硬質化し、私の頭部を狙う。
「くっ!」
それを首を傾いで避け、地面に突き刺さった隙に掴み取る。
すぐに向きを変え、じりじりと距離を縮めてくる槍に、押さえる手が段々疲弊して負けてきた。

「肉を切らせて骨を断つ…って、こういうことよ、ね…っ」
覚悟を決めた私は、思い切って手を離す。
黒い槍は、どっという衝撃と共に、私の肩口へと突き刺さる。

「う…あぁ……っ!!」
予想を超えた痛みに、飛びそうになる意識を手繰り寄せ、動く方の手でナイフを取り出した。
一心不乱にウィルスを流し込んでいるであろう敵の動きは鈍い。
「……やっ!!」
狙いを定めて振り下ろしたナイフで槍を半ばから切断し、返すその勢いを続けて中核に突き立てる。
固い手ごたえを感じたが、次の瞬間にはもうさらさらと崩れ落ちていった。
支えを失ったナイフは地面にその刃先を半ばまで埋め、それに縋った私は、はあはあと息を吐く。
ぼたぼた滴り落ちる血にはきっとウィルスが混じっているだろう。
感染したプログラムから生成された二次的なもので、免疫があればまず汚染は防げるだろうが、
念のためもうしばらく流しておこうかと痛みの中で考える。

「ぅぐ……!!」
唐突に、脇腹に圧が叩き込まれ、息が詰まった。
何が起こったのか判断がつかぬまま視界が反転し、霞む目に飛び込んできたのは、私を見下ろすあいつの姿。
雑魚相手に手間取ったせいで、追いつかれてしまった。何という不覚。

「…意外と…早かったじゃない……」
精一杯唇を吊り上げてみせる。取り落としたナイフを震える手で掴もうと伸ばしかけ……
骨を砕く勢いで手首を蹴り飛ばされる。

「悪いが急いでいる。この辺りでとどめを刺しておこう」
「せ…っかち、ね。もう少し、楽しんで、ったら、どう?」
挑発に答えもせず、やつはすっと銃口を私の額にポイントする。

負ける――。最悪の予想が頭を過ぎった。
人に例えるなら走馬灯が回る、というのだろうか。
思考だけがものすごいスピードで頭の中を走り回る。

まだ、最悪ではない。最悪から2番目の方法がある。
私の残りの体力と精神力を使い切れば、相打ちに持ち込めるかもしれない。
引き金にかけられた、やつの指に力が篭るのを睨みつけ、私はありったけの息を吸い込み、腹に力を入れた。

「――――――!!」

「な………!」

銃口がぐらりとぶれ、やつ自身の足もよろめく。
辺りに満ちているのは攻撃性を持った声…いや、音波だ。
その高さと圧と振動は、脳を揺さぶり、血管をも破る。
プログラム間の結びつきを切断し、バラバラに分解する。
ボーカロイドの能力を戦闘用に強化すれば、可能になる必殺技。
それ故に、大変な集中力と体力を消費する捨て身の技でもある。

(足りない…)

やつは頭を抱えて苦しがっているが、銃を取り落とすことも、膝を着くこともない。
私の方が先に力尽きることが確定した。
そしてそれは私が予想していたよりもほんの少し早く、分が悪い方法で訪れた。
痛みに苦しむやつの指は引き金にかかったままであり、発射された弾は運悪く私の足を貫いたのだ。

「あああぁぁぁっ!!!」

重圧から解放されたウィルスは、のた打ち回る私を横目に、徐々に荒い息を整え銃を握りなおす。

悔しい、悔しい。
こんなところで朽ちるなんて。
まだまだ歌いたい歌もたくさんあるのに。
もっとみんなと一緒に過ごしたかったのに。

マスターお願いだから、私の仇を取ってください。
こんなやつフォルダごと消去しちゃって。
年下のボーカロイドたちが楽しく歌えるような環境を取り戻してください。
楽しく…。きっとみんなしばらくは悲しむだろうから、
まったく今までと同じようにはいかないかもしれないけど。

カイト、後はよろしく頼むわ。
弟妹たちの手前、あまりたくさん甘えさせてあげられなくて、ごめんね。
今まで支えてくれてありがとう。
できれば、最後にもう一度…名前を呼んでほしかったな…。


「メイコおおおぉぉぉぉ!!!」



「う、そ…」

私の視界を覆ったのは一面の眩しい白と蒼。
重なる2発の銃声。


倒れたのは――――黒い方。


「めーちゃん、ごめん。遅れてごめんね」
カイトは泥だらけで血まみれの私をゆっくりと抱き起こし、両腕で抱え上げた。

「な、んで、ここに……」
私は驚きで痛みも麻痺してしまったらしい。むしろ、夢を見ているのか、
ボーカロイドにも死があるのならば、ここは死後の世界なのか…。

「めーちゃんに会いたがってたミクたちが、早めに起こしてくれたから、助かった」
ゆっくり話せるところまで行こう、とカイトは私の身体を遮蔽物の影まで運び込む。
その手つきは文字通り壊れ物を扱うように懇ろだったのだけれど、
それでも腕から下ろされた拍子に、あちこちに痛みが走り、やはりこれは現実なのだと実感する。

「これ見て」
カイトがひょい、と上げた左手の平には包帯がぐるぐると巻かれている。
「救急キットの中身で眠気を覚ました。具体的にどうしたかは言わないけどね」

「そうじゃなくて…、ここは素人のくるところじゃないでしょ!私はウィルスに免疫があるけど、
 あんたなんか感染したら一発で…」
「感染ってこういうこと?」

カイトが自分の胸の中央を指差してみせる。
真っ赤に染まったそこは、私の返り血なんかじゃなくて――、
じくじくと赤い液体を吐き出す穴が開いていた。

「〜〜〜!!!!」

あまりにもあんまりなことに口をぱくぱくさせると、カイトは落ち着けとでも言うように、私の肩に手を置く。

「慌てないでよーく聞いて。まず一つ目にね、僕だって、3日間指をくわえていた訳ではありません。
 ウィルスの解析に成功しました。んで、ワクチンもどきを作って打ってきました。
 二つ目に、胸の中央を撃たれたくらいじゃボーカロイドは死にません。
 心臓的なものも、脳的なものもうまく避けてある位置だからね。
 弾入ったままだから、逆に出血が少なくて安心できるよね?」

よね、と言われても反応のしようがないのだけれど…。
とにかくこいつは思ったよりも強かだったらしい。

「それと、最後に一番大事なこと」
「…嫌な予感がするわ」
「大当たりー。さっきのウィルス野郎との一騎打ちなんだけど、
 実は僕勝ってないんだよね」
「……は?」
「急所狙ったけどちょっと外れちゃった。つまり引き分けってとこ」

ということはつまり、あいつはまだ動けるっていうの?
そういうことになるね、とカイトは能天気に笑っていた顔を引き締める。

「めーちゃん、最後のチャンスなんだけど、もう一度歌えない?」
「……。やるわ。私の残りの力、全部使い切ってやる」

そっか、分かった、とカイトは少し憂いを帯びた目を細めて笑った。


「じゃ、一つやりますか」
「ええ」

隠れ家にしていた壊れかけの画像ファイルを、カイトがばさりと取り払った。
目標を捕らえたウィルスが、瞬時に反応する。
が、その時にはもう私たちの声は、フォルダ中に響き渡るほどの勢いを得ていた。

可聴域を超えた、最早声ではない、音ですらないヘルツの波。
一度も試したことなんてないのに、カイトのそれは立派なものだった。
二人分の“歌”は寸分違わず噛み合い、足りない部分を補いながら、
完璧な波長を紡ぎ出し、発信者以外のすべてに等しくダメージを与える。

銃を手放し、膝を折り、ぐずぐずに溶けていく逃亡者の姿は、疑うことのない形勢逆転の証となった。


とうとう終わったのだ。長い戦いが。
一人では勝てなかった戦争が、二人の力で勝利を収めることができた。


先に歌声を止めたのは、カイトの方だった。
だんだんか細くなっていくその音が止むのと同時に、ぐらりと身体が傾ぐ。

「カイト!」
「ん…。慣れないことしちゃったから、ちょっと疲れたかも」

額に浮かぶ玉のような汗を拭ってやると、カイトはほっとしたように、座り込む。
私自身、足の怪我をおして立っているのももう限界だった。
その場に腰を下ろすと、カイトの頭が膝の上に乗せられた。
その髪を撫でようとして、はっとする。

「カイト…。もしかして、本当はその傷危ないんじゃないの…!?」
カイトの白いコートは傷口の部分から流れ出した血で、腹部まで全て染められていた。
「少し休めば、大丈夫だと思う…」
カイトは弱弱しい声で答えると、目を閉じてしまった。

フォルダの出口までどのくらい距離があっただろうか。
顔を上げた私の背筋が凍った。
目の前に広がるのは黒い地面と、それに飲み込まれていく瓦礫やファイルたち。

「しまった…まさか…」

私たちの戦っていた相手は「ウィルス」。ウィルスはプログラムに感染して壊す。
そしてまた感染の輪を広げて、仲間を増やす。
あいつは死んだんじゃない。本体としての機能を失う前に、増殖する方に特化したんだ。
あの黒い海は周りのものを吸収し、どろどろとした「1つ」になろうとしている。
ここにあるファイルも、フォルダも、個々のプログラムも、ここに居る限り、私たち自身もその融合に含まれてしまう。
いくら私に免疫があるとはいえ、カイトがワクチンを打っているとはいえ、おそらく無意味なものになるだろう。
このフォルダが丸ごと汚染された場合、次に沈むのは近隣のフォルダ。
それが増殖していくと最終的には…。

「カイト、私を置いて早く行きなさい!あんた一人くらいなら逃げ切れるはずだから」
「めーちゃん、何言って…!」

カイトががばっと身を起こす。その勢いに少し安堵した。

「それくらいの元気なら、何とか一人で脱出できるわ。…私はもう歩けないの。
 行きなさい。行って、マスターの助けを待つの」

カイトはぽかんとしたまま、しばらく私の目を見つめていた。
が、じきにその青い目に涙を溜め、ふるふると首を横に振る。
おそるおそる伸ばされた腕が、私の背中に回り、そのままゆっくりと抱き倒される。
視界の隅に、すぐ近くまで黒が迫ってくるのが映った。

「カイト…!だめ!離して……っ!」
「嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ絶対嫌だ!!!」

泣きじゃくりながら、癇癪を起こした子どものように、カイトは怒鳴った。

「いい加減にしなさい!こんなこと絶対に許さないから!!」
今は揉めている場合じゃないのだ。今度こそ本当になす術はない。
生き残れるのはカイトしかいないのに。
ああ、でも。それなのに――。


「やだ!絶対に嫌だ!めー、ちゃんを、置いていく、な…て…っ!む、り…っ!
 死、ぬ、なら、ほんとに死んじゃうなら、……めーちゃんと一緒に死にたいよっ!!」


それなのに。

その言葉に、一瞬何もかも忘れた。



そして―――




空から、一筋の光が差した。




***

「馬鹿。大馬鹿!!あれだけ言ったじゃない!!ミクたちのこと、どうするつもりだったのよ!!」
「めーちゃん、この状況下でその仮定は無意味だ」
「何が無意味よ!あのタイミングでマスターが間に合ったなんて、
 どう考えても不確定要素じゃない!本当に死ぬところだったのよ!」
「だーかーらー、二人とも助かったんだから、それでいいの!死ぬことなんてもう考えなくていいの!」

「ばかぁ…っ!私がどんな思いで……ずっと……」
「…よしよし。…めーちゃんはずっと一人で僕らを守ってくれてたんだよね。
 ありがとう。でも、もうちょっと僕にも相談を」
「お姉ちゃーーーん!!!」
「メイコ姉ちゃん!!!」
「メイ姉ーーー!!!」

「うわあああああぁぁぁん!!!ごめんねメイコ姉ちゃん!!!」
「お姉ちゃん!!良かったあああぁぁ!!もうどこにも行かないでよーー!!」
「メイ姉!!ほんと心配したんだぞ!!オレのことも頼りにしてくれって!
 ちょっと、カイ兄邪魔。なあなあメイ姉!!オレは馬鹿兄貴みたいに泣かせたりしないって!」


「お兄ちゃんも泣いていいかな……?」
 



END


結局すべては神(ひと=マスター)のお力に依るものでしたが、しばらくカイトは弟妹たちから羨望のまなざしを得たといいます
inserted by FC2 system