照り返す夕日を浴びた赤い人影、確信できた。あれは――
「めーちゃん!」
走り続けた足の痛みも息苦しさも忘れ、茫洋と佇むその細いシルエットに走り寄る。
少しでも早く近づけるように。


これまでも、これからも


数日前からめーちゃんの様子がおかしかった。
話しかけても上の空だったり、生返事だったり。
マスターやミクたちの前では、いつも通りに振舞ってはいたものの、僕しか見ていないところでは少し気が緩むのか、
沈みがちな様子が手に取るように分かってしまう。
「めーちゃん、何かあったの?……僕にも相談してくれないの?」
恐る恐る聞いてみたのだが、「何でもないの」と気丈に笑顔をつくり、カイトは優しい子ね、と頭を撫でてくれるめーちゃんに、それ以上は追求できなかった。

それでも、昨日のレコーディングの最中に歌詞を度忘れしたのにはさすがに驚いた。
仕事に人一倍情熱を傾けている彼女には、これまで一度もありえなかったことだ。

今日こそはめーちゃんの心配事を聞きださねば、と二人分のアイスとビールを買って帰宅した僕は、
朝からめーちゃんがいなくなっていることを知った。


ミクやリン、レンはすでにマスターのいるこっちの世界と電脳世界の両方を探しに出ているらしい。
マスターも険しい顔をして、ずっとパソコンに向かったまま。
僕もすぐに家を飛び出し、めーちゃんが行きそうなところを手当たり次第に探して回った。
みんなで買い物に行った商店街、仕事帰りに連れて行ってもらったバー、ケンカした後迎えに行った公園…
めーちゃんはどこにもいなかった。

もう何時間経ったのだろうか。
傾く太陽に、愛しい人を重ね合わせたその時、思いついた場所が、マスターの家に来たばかりの頃よく歌を歌いながら、
二人で歩いた川沿いの土手だった。



「めーちゃん!」
誰もいない川原で水際にぼんやり立っている彼女は、僕の声に振り向いてくれない。
永遠にも感じられる距離を縮め、やっと辿り着いた僕は息を切らしながら、彼女の肩に手をかけこっちを向かせる。
その虚ろな瞳は僕を見ておらず、顔には何の表情も浮かんではいない。

「めーちゃん!しっかりして!」
ぞっとして、冷え切った肩を揺さぶると、しばらくの間を置いて、ふと目の焦点が僕に合わさった。
「…っ!カ…イト…?」
軽く目を見開き、僕の名を口にするめーちゃんに、少しだけ安堵した。
「めーちゃん、心配したんだよ。みんなも探してるから早く帰ろう?」
諭すように柔らかな笑みを浮かべて彼女の手を取る。あれ、動かない。

「ごめんね、私…」
無理やり微笑むめーちゃんの顔は寂しそうで、どこか泣き出しそうで。
覚えた違和感に気付きたくなかった。

「私はもう帰れないの」

気付きたくなかったけれど、ボーカロイドの聴力は、めーちゃんの声にノイズが混じるのを聞き取ってしまった。
「めーちゃん…なに…があったの…?」
表情を凍りつかせる僕に、彼女は少し考えるように間を置き、たどたどしく口を開いた。

「何故だか、分からないけど、もう、ダメなのは、なんとなく、分かるの。あんたの声も、よく、聞き取れないし、目も、あまり、見えない。自分の声は、今朝から、聞こえなくなっちゃった。
…ねぇ、私の言葉は、ちゃんと、届いているかしら…?」
ゆっくりと区切りながら話す彼女の言葉に、僕は泣きそうになるのを堪えながら、うんうんと大きく頷いた。
めーちゃんは安心したように先を続ける。

「しばらく前から、記憶が飛んだり、体がうまく動かなかったりすることが、あったんだけど、ここ数日それがひどくて。マスターに調べてもらうよう頼んでから今朝になって、ウィルスの可能性に気付いて、家を出たの。
あんたたちに、感染させる訳には、いかないからね」
「だからって…そんな!」

僕には為す術がないのが悔しかった。
彼女の綺麗な声が、所々機械的な雑音にかき消されるのが悔しくて、たまらなくなって、彼女を抱きしめる。
夕暮れ時の風に晒され、冷え切った身体を少しでも暖めてあげたかった。
力を込めたら壊れてしまいそうで、それでも、彼女の背中に腕を回していないと不安だった。

「今頃になって、何となくウイルスじゃないことが分かったんだけど…。もう、遅いわね」
「めーちゃん…僕に出来ることはないの?……どうすればめーちゃんを助けられる!?」

返事は、ない。
そうか、僕の声はもう届いていないのか。

「カイト…私は、あなたの顔を見て話したいわ」
最期だからね、と耳元で聞こえる彼女の言葉が、ぐさりと心を抉る。


彼女の腰に手を回して、ゆっくりと座らせた。
地面に両手を着くと、立っているときよりも楽になったようで、僕の顔を正面から見つめる。
「まっ…く、泣くんじゃ…いわよ。男の子…んだから」
めーちゃんがいつもより少しぎこちなく笑う。
恥ずかしいという感覚もなく、すでに僕の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
何で、何でこんなことになってしまったんだ。
めーちゃんがどんな悪いことをしたっていうの?

「仕方…な…のよ。私はず…ぶん前にイン…トールされ…から。もう時…がきたん…わ。
マ…ターも、ミク…リンもレ…も、みん…に会えて本当によ…った」

めーちゃんが僕の涙を拭おうと伸ばした右手は僕の頬に届く前に、指先からノイズとともに砕けていく。
「い…嫌だ…!めーちゃん!」
掴もうとして伸ばした僕の左手は空しく宙を切る。
消えてしまった指先を困ったように見つめ、彼女は緩慢な動作で目を伏せる。

「本…は、怖い。泣きわめ…いて、叫…んで、狂っ…しまえ…ば、楽にな…れるかも…って。
でも…あ…たがここで、わた…を見届…てくれ…て……から、そう…らずに済…でる」
「めー、ちゃ……!?」
めーちゃんの足の先がだんだん色を失って、空気に溶けていくように分解されていくのが見えてしまった。
目の前の出来事が信じれられなくて、ひぐっと喉の奥で引き攣れるような嫌な音が出る。


「めーちゃん!好きだ好きだ好きだ好きだ!!僕はめーちゃんのことが大好きで大好きでたまらないんだよ!!
 だから、だから僕を置いていっちゃうなんて、そんなの絶対だめだよ!」
引き止めたい一心で僕は叫んだ。泣きながら、しゃくりあげながら大声で叫んだ。

めーちゃんが、目を開いた。

「…い……ま……声…聞こ…た…。あ…り……と…う……。カ…イ……ト、わ………も、だ…い………すき」

僕が手を伸ばすのと、めーちゃんが満面の笑みで涙を一筋流すのと、沈む太陽が彼女の身体を透かすのは同時だった。
「あぁ……。う…ぁ…っ……。めー…ちゃ……!めーちゃん…っ!!」

そこには何もなかった。何もなくなってしまった。
僕は初めから一人で泣いたり叫んだりしていたんだと錯覚するかのように。
残された僕は、ギリギリと爪で地面を引っかきうずくまるしかなかった。





「……ちゃん、起きて」
誰かの呼ぶ声がする。ああもう朝か。
今日の予定はなんだったかな。仕事の後にめーちゃんとアイスを食べようと買ってきたんだっけ。
早く起きなきゃ。

「ねぇ、起きてってば」
「うん…、めーちゃんおはよ…」
もごもごと返事をして体を起こすと、ドアの前に目を伏せたミクが立っていた。
頭を殴られたようなショックとともに、昨日の光景がフラッシュバックする。
「…マスターが、レコーディングするから、お兄ちゃんを起こしてきてって…」
ミクは小さな声でそれだけ言うと、そっとドアを閉めて出て行ってしまった。

昨日どうやって家まで帰ってきたのか覚えていない。
帰宅した僕の顔を見たマスターは、何も聞かず、今日はもう休め、とだけ言って部屋にこもってしまった。
ベッドに倒れこんだ僕は、泣き疲れてそのうち眠ってしまったらしい。
マスターがミクたちになんて説明したのかは知らないけど、いつもは朝からわいわい身支度をして、ケンカしながらご飯を食べる双子の声も聞こえず、家全体がしんと静まり返っていた。

「レコーディング…か」
ベッドに腰掛け、ぽつりと呟く。
僕らはボーカロイドであり、その第一の使命は歌を歌うこと。
情緒を込めて歌を歌えるよう、感情も付与されているが、マスターの命に逆らうことはできないし、
存在意義である歌うことも拒否することはできない。
例え心に傷を負ったとしても、普段と何一つ変わらぬ声で歌を歌い上げることができる能力は備わっているのだ。

「メイコ…ねぇさん。……めー…ちゃん…」

生き物としての寿命がある人間と違い、ソフトウェアである自分たちには、永遠の別れというものはないと思っていた。
万が一の事態があることは知識として知ってはいたものの、まさかこんなにあっけなく訳の分からないまま、
大事な存在を喪くしてしまうなんて、夢にも思っていなかった。

夢…まどろみの中で見た、昨日までの幸せな日常。残酷な夢。


「お兄ちゃん!!」
バンと乱暴にドアが開き、ミクが部屋に飛び込んできた。
しまった!マスターに呼ばれていたんだった!
反射的に姿勢を正し、ミクに弁解する。
「ごめん!すぐに準備するk「大変なの!!お兄ちゃん!マスターが大変!早く!マスターが!」
ミクは有無を言わさず僕の手を引っ張って、マスターの自室まで連行する。

「え?ちょ、ミク?マスターがどうしたの?」
戸惑う僕に、ミクは「大変」「マスター」「お兄ちゃん」
の3語を繰り返すだけで、ちっとも要領を得ない。
挙句、マスターの部屋のドアを開け、僕を突き飛ばすように部屋に入れて、ミクは外側からドアを閉めてしまった。
何なんだ一体…とマスターのデスクに向き直った僕は、息が止まるほど驚いた。

イスに座ったマスターの横に立っている茶髪の女性――
赤い服を身にまとい、髪と同じ茶色の瞳で、まっすぐ僕を見つめている。
「メ、MEIKO……姉さん?」
無意識に口をついて出たその呼称。
僕がこの世で一番愛しいと感じて「いた」女性の姿がそこにあった。急激に頭の芯が冴えていく。
僕は自分でも意外なほど冷静になれた。


つまり、マスターは不具合が出てアンインストールされてしまった「ボーカロイド・MEIKO」を再インストールしたのだ。
ソフトウェアである僕らに起こった、深刻なエラーに対する処置としては、まったくもって正しい。
人間に造られた存在に「永遠の別れ」が存在しない所以だ。
いくらでも複製で同じ性能のものを増やすことができる。

ただし、それはソフトの基本部分が同じだけのこと。

一度個性を持ったモノは例えパソコン一つとっても、同じものはこの世に二つと無い。
僕やミクたちにとって、そしてマスター自身にとっても「僕らのうちのめーちゃん」は一人しかいないのだ。

マスターにとっても、「めーちゃん」を失ったことは辛いに違いない。
それでも、必要だから、ボーカロイド・MEIKOを
再インストールしたのは、マスターの判断だ。
マスターに仕える僕たちはどんな感情を持っていてもマスターの考え方には従わなければならない。

例え、僕が死ぬほどめーちゃんのことを愛していても、だ。

「カイト」
僕のことをじっと見つめていたMEIKOが口を開いた。
「……はい」
僕は神妙な面持ちで返事をした。
…ただ、目を合わせることはできなかった。


「…ひどい寝癖」
「え?」
つかつかと近寄ってきたMEIKOは僕の頭に手を伸ばし手櫛で僕の髪を整える。
その手つきは僕を弟扱いして可愛がってくれていた「めーちゃん」そっくりで、
浮かんできた涙を、目をぎゅっとつぶって堪える。
MEIKOの手が戸惑ったように止まった。

ああ、なんて情けないんだ僕は。これからこの人と仕事仲間として、家族としてうまくやっていかなければならないのに。

めーちゃんのことは、誰もいない部屋で思い出して一人で泣けばいいのに。


「おい、メイコ。そろそろ勘弁してやれ」
今まで一言も喋らなかったマスターの、笑いを含んだ声に僕は目を開いた。
目の前の女性(ひと)は苦笑して、もう…仕方ないんだから、と言って僕の目尻に溜まった涙を、右手の親指で拭った。
それは昨日、川原で僕の頬に手を伸ばした仕草とまったく同じで――

「…めーちゃん?」

何度も何度も繰り返し心の中で呼んだ名前が、震える声で部屋に響いた。
「ただいま、カイト」
ふわりと微笑んだその笑顔は紛れも無く――

「めーちゃん!!」

視界が熱くて、ぼやけてしまって前が見えないけど、抱きしめたその体は暖かく、柔らかく、そして実体を持っていた。
昨日流した涙も、今朝の涙も、無かったかのように僕は大声を上げて泣いてしまった。
めーちゃんはただ黙って僕の背中をさすり続けてくれて、たまに僕の涙を拭いて、
子どもをあやすように頬ずりしてくれて、僕が落ち着いた頃、事情を話してくれた。

「マスターが『私』を遺してくれるよう一生懸命頑張ってくれていたの。私の記憶(メモリー)からエラーが出ている部分だけを除いて、残りを全部バックアップしてくれた。あの時、実体が消える瞬間に、
私の記憶は全部マスターの手元に回収されたってわけ」
「じ、じゃあ、マスターやミクたちはみんな知ってて…?」
「マスターには原因を調べてもらうために、不調のことは打ち明けていたけど、家出しちゃったのは、誰にも言っていないわ。みんなに心配をかけてしまって反省してる。私が無事に戻ってこれたことは、さっきミクに一足先に知らせただけよ」
ミクにあんたを呼んできてもらおうと思って、とめーちゃんは微笑む。

「お前だけ特別扱いなのは何でか分かるか?」
マスターがニヤニヤしながら聞いてくる。
「え?…それって」
僕がめーちゃんにぞっこんなのはマスター含めみんなにバレバレだけど、マスターまで僕に気を使ってくれたのかな。
「当然、ドッキリでからかうために決まってるだろ、なぁ?」
顔を赤くする僕を指差して笑ったマスターは、めーちゃんに目配せをする。
めーちゃんもいたずらっぽく微笑むだけだ。
…ううん、何だか大泣きして損した気がするぞ。


「さて、のん気に泣き寝入りしてた誰かさんを喜ばせるために徹夜で復旧作業したから、俺はそろそろ疲れた。
仮眠取るから今日は全員仕事休んでいいぞ」
マスターは大きく伸びをして、僕ら二人に向かって出て行けとばかりに手を振る。

「マスター、ご迷惑をおかけしました。感謝しています」
頭を下げるめーちゃんに倣って僕も慌てて
「マスター!ほ、本当にありがとうございました!!」
と深く深く礼をすると、ん、とマスターは満足げに頷いて、欠伸をした。


「お姉ちゃん!!」
マスターの部屋のドアを閉めた瞬間、外で待ち構えていたミクがめーちゃんに抱きついてきた。
「ミク、ごめんね。心配かけて」
めーちゃんは優しくミクの頭を撫でる。
「よかった…よかったよぅ。お姉ちゃんがいないなんて絶対いやだぁ…!」
泣きじゃくるミクを宥めていると、廊下の向こうから突撃してくる黄色ズの姿が。

「メイ姉!」
「メイコ姉ちゃん!」
レンとリンもめーちゃんの腕や腰に抱きつく。
「俺たちはなぁ!ちゃんと空気読んで」
「メイコ姉ちゃんがマスターの部屋から出てくるまで我慢してたんだからね!」
びーびー泣く二人(+ミク)を見て、僕はほんのちょっとの罪悪感と、優越感を感じて苦笑する。
でも…僕ももうちょっとめーちゃんに甘えたいんだけどなぁ…。


その日の夜、めーちゃんが無事に帰ってきた嬉しさと異例の全員オフにはしゃぎ疲れたミクたちが部屋に戻り、
夕方頃起き出して「生活リズムを戻すためにゲームして疲れてから寝る」
と言い残し(仕事は?)、マスターが部屋に戻った後、僕とめーちゃんは、キッチンで夕飯の後片付けをしていた。
こうしてまた一緒にいられることが、たまらなく嬉しくて、リビングから運んできたお皿を流しに置いて、洗い物をしているめーちゃんに、後ろから抱きついてみる。

「…そういえば、言ってなかったね」
「え?何を?」
「ありがとう、カイト」
洗い物の手を止めて、めーちゃんは僕の方に向き直った。
「本当は内心諦めてたの。これが寿命ってものなのかなって。だからあの時、私が意識を保っていられて、マスターのメモリー回収が間に合ったのは、あんたがいてくれたおかげなのよ。生きる気力さえ失って、消えるのを待つだけだった私の代わりに泣いてくれて、消えちゃダメだっていってくれた、あなたのおかげ」
「めーちゃん…」
あの時僕は無力で、消えてしまう彼女にすがりつくことしか出来ないと思っていたのに。

「…お礼に、今日だけは甘えてきても許してあげる」
ウインクをして見せためーちゃんは、いつもの姉御肌のめーちゃんで、
僕が彼女を助けてあげられたなんて、何だか信じられないけど。

「あ、じゃあさ、洗い物片付けたら二人で晩酌しようよ。ビールもアイスも二人分買ってあるんだ」
めーちゃんの嬉しそうな笑顔を見ながら、僕はもう一つ思い出していた。

あの時、僕は「好き」の大安売りをしてしまったけど、めったにその手のことを、口にしてくれないめーちゃんが
一番最後(にならなくてよかったけど)に言ってくれた言葉が、
僕への「大好き」だったってこと。

もう二度とあんなことは体験したくないけれど―――
やっぱり僕は世界一の幸せ者だなぁ、と自然にこぼれ出る笑みを浮かべ、僕はキッチンの恋人にお皿を運ぶ。


END


記念すべき初カイメイ二次が突然クライマックスでした
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