「明日?ああ、うちの収録はもう終わったからいいよ。うん、そうだな……」
マスターが電話をしているのを横目で見ながら、遅めの昼食であるおにぎりをぱくつく。
おかずはメイコのお手製卵焼きとアスパラベーコンまき、そして浅漬け。
スタジオに篭もりっきりでレコーディングしている僕らのために、朝からメイコが持たせてくれたものだ。
凝り性のマスターは納得いくものが完成するまで絶対にスタジオの扉を開けない。
メイコの「お弁当」を楽しみに頑張ってきた僕は、お預けにされていた御褒美を前にせわしなく手と口を動かしていた。

「こら、俺の分!」
「あたっ!頑張ったのは僕じゃないですかー」
「どの口が言うんだ。朝イチじゃ声が出ないなんて泣き言抜かして。プロの自覚があるならちったぁメイコを見習え」

僕に悪態をつきつつマスターの動きは俊敏だ。重箱の蓋に自分が食べる分をひょいひょいさらってパソコンデスクに避難する。
それもそうだ。マスターの取り分の一部はすでに僕の胃の中に収まりつつある。
だが残念だったな…!おかかのおにぎりは全滅だ!何故なら僕の好物だから!!

「明日な、メイコを手伝いにやることになった」
昆布のおにぎりを水筒のお茶で流し込むと、マスターは壁のカレンダーに予定を書き込む。
「珍しいですね。立食パーティーでも?」
「バカ。いくらメイコのメシが美味いからって、炊き出しにやるわけねーだろ。知り合いのDTM始めた奴んとこだよ」
「冗談ですって。で、何時からですか?持ってくものは?」
「お前、勘違いしてないか?」
マスターの苦笑混じりのため息に、え、とおしぼりで手を拭く動作を止める。

「応援にやるのはメイコだけだ。お前は行かなくてもいいの」
「はぁ!?」
そんな馬鹿な。どういうことだ。僕とメイコはいつも一緒にいるのに。
ソロ曲と同じくらいたくさんのデュエットを歌っているというのに。
第一初心者の人になら、僕らの歌声の相性がいいことを見せてやる絶好のチャンスなのに!
挙動不審な動きで口をぱくぱくさせる僕を見て、マスターは、これは重傷だな、と呟く。

「やつの家にはKAITOがいる。MEIKOと声を合わせてみたいからって俺に声がかかったんだ。今回は大人しく留守番だ。このシスコンめ」

目の前が真っ暗になった。


Solitude and Riot


通された部屋は、白い壁にテレビやソファーが置かれた一般的なリビング。
休んでていいよ、との言葉に甘え、ソファーに腰を下ろす。
朝家を出る前に、今生の別れのごとくカイトがしがみ付いてくるのをあしらいつつ、
その尋常ではない取り乱しっぷりに少し緊張しながら、この家に足を踏み入れたのだけれど、杞憂に終わった。
この家のマスターは謙虚で優しかった。私の歌声を褒めてくれたし、調整のコツを教わりたいからと、メモを用意していた。
まだまだ初心者で恥ずかしいと言いつつも、部屋の隅に積み上げられたDTMの指南書に挟まれた付箋の数が、
この人の努力の証なのだと読み取ることができた。
きっと伸びる人なのだろうと思う。いつかこの家にもMEIKOが迎え入れられるに違いない。
「うちのKAITOと合いそうな声だ」と喜んでくれていた。

ここのおうちのKAITOはどんな声なのだろう。休憩を挟んでから顔合わせをするとのことで、私は今ここにいる。
うちのカイトとはやっぱり違うのかしら。
私自身あまり他のボーカロイドに出会う機会がないので、楽しみでもあり、少し不安でもある。
話しやすいひとなら良いのだけれど。

そうひとりごちていると、私の耳が足音を捉えた。徐々に近づいてくるそれは、ドアの前で止まり、
軽いノックの音の後、青い頭がひょい、とのぞく。

「MEIKOさん?初めまして!」

嬉しそうに私を見て笑う同型のボーカロイド。その声が心地よく耳に響く。
少し高めの少年のような、活発な印象を与える声。
うちのカイトは中低音を得意音域とし、性格も割りとのんびりマイペースな方だから、同じKAITOでもこんなに差があることに少し驚きを感じる。

「初めまして。ここのKAITOね。今日はよろしく」
隣に座ってもいい?と後ろ手にドアを閉めながら、KAITOが問うてくる。
頷いた私は彼のためにスペースを開け座りなおした。
ぼすっと音を立てて座ったKAITOの身体は思ったより近くにあって、もう少し間を空けようと着いた腕をぎゅっと掴まれる。
びっくりして思わず彼の顔を見てしまう。
いいからいいから、と言いながらにっと笑う口元に、微かに胸がざわつく感じがした。
うちのカイトとは違う。身体の大きさはこのKAITOの方が少し小柄なくらいだけど、仕草の粗さのせいで男の部分を強く意識してしまう。
カイトはマスターにこそ悪態をついたりするけど、私のそばで大きな音を立てたり、乱暴に腰をおろしたりなんかしない。

「ええと……」
「MEIKOさん、俺ね、MEIKOさんが来るって聞いて、すごく楽しみにしてたんだ」
「ありがとう。私も楽しみだったわ」
「本当? 俺一目見てMEIKOさんのこと気に入っちゃった。こうして近くで見るととっても綺麗だ」

KAITOは屈託のない笑みで私の手に自分の手を重ねる。ああ、この子ちょっと、恐いかも……。

「早く一緒に歌ってみたいわね。あなたが来たってことはもう準備ができたのかしら」
「それがさ、ちょっと機材の調子が悪いみたいで、マスターがそれにつきっきりなんだ。まだ時間がかかるっぽいね」
「そうなの……」

何だか調子が狂ってしまう。このKAITOとの会話に楽しみを感じていない自分を意識してしまった。
第一印象で相手を決めるなんていけないことなのに。何とかして話を振らないと、沈黙が続くことで気まずくなってしまうわ。
うちのカイトならこんなとき、何かやらかすか、変なネタを振ってくるから自然に会話が弾むんだけど……。

「ね、MEIKOさん。俺といるの嫌?」
「ひゃっ!」
ぐいっと顔を近づけてくるKAITOに驚いて、反射的に身を引いてしまった。
きょとんとした彼に、ごめんね、違うのよ、と急いで謝る。
「私、人見知りだから、あんまりそういうの慣れてなくて……」
愛想笑いの私に、KAITOは理解しがたい、といった風に首をひねる。
「俺も、他のボーカロイドに会うの初めてだけど、そんなことはないな」
「ボーカロイドにも人と同じ個性があるから、仕方がないのよ」

ふーんと興味なさそうに相槌を打ったKAITOは、唐突にソファーの背もたれにぐっと肘をつき、私の方に向き直り距離を詰めてきた。
適当に浮かべた笑顔が凍りつく。
どうしようどうしよう。やっぱり私このひとが怖い。なまじ見知ったカイトと同じ顔をしているから余計に――。

「MEIKOさんちにもさ、KAITOがいるんでしょ? どんなやつなの?」
KAITOはそれを見透かすように、うちのカイトのことを聞いてくる。
頭の中で引き合いに出して比べていたことがばれてしまったかのように。
私の心臓がどくん、と跳ねた。

「うちのカイトは……そうね、ほわほわしてて、甘いものが好きな子だわ」
そして、安定した低音で私の歌声を支えてくれて、私が落ち込んでたら一通りあわあわした後いつまでもそばに居てくれるし、
めーちゃんと歌えるのが一番幸せだなー、なんてこっちが赤面するようなことをとろけるような笑顔で言ってきたり……。

「MEIKOさんは、そいつのことが好きなの?」
「え……?」

急に真顔になったKAITOの目が私を捉える。いつの間にか握り締めていた掌は、びっしょりと汗をかいていた。
答えなくちゃいけないのかしら……。離してくれそうもない。

「え、と…んー……。お互いを尊重し合える同僚で、プライベートでも仲良くやっているから、
好きかと聞かれれば……好きだと思うわ」
淀みなくすらすら言えずに言葉を選んでしまう。事実には変わりないんだけど、本当は、本気で好き。
嘘はついてないから、これで納得してくれないかしら。

「そうなんだ」
突然目の前のKAITOはむっとした表情を見せる。こういうストレートに感情を出せるところはうちのKAITOと少し似てるかもしれない。
私は何かまずいことを言ってしまったのだろうか。

「俺じゃだめなの?」
「えぇ…!?」

予想外の言葉に絶句してしまう。どうしてそういう話になるのだ。
何か言おうとすれど、言葉がうまく出てこず混乱する私の肩に彼の手がかけられ、動きを封じられる。

「俺、MEIKOさんのこと好きになっちゃった」
「ちょ、ちょっと待って!今会ったばかりじゃない。私はあなたのこと全然知らないわ」

怖い怖い怖い……。彼の手の熱さが私の焦りを増幅させていく。
きゅっと眉を顰めた青い瞳が、目を逸らすことを許してくれない。

「何で?うちに来てくれるんじゃなかったの?」
「ち、が……違うわ!私は手伝いに来ただけよ!歌合せが終わったら、帰らなくちゃいけないの」

震える声を振り絞って、からからの喉を開いて、懇願するかのよう訴えかける。
掴まれた肩に込められた力は強くて、振り払うことができない。

「そんなの嫌だよ。俺はMEIKOさんが好きなの。うちに来てよ。MEIKOさんがほしい」
「や、やだぁ……!離してっ……!!」

私の悲鳴は途中でかき消され、ひゅっと視界が回り、背中に衝撃を感じた。ソファに押し倒されたようだ。
恐る恐る目を開くと、私を見下ろす彼の笑顔。狭い場所で上から押さえつけられ、身動きが取れない。

どうしてこんなことになったんだろう。何でこんな目に遭わなくちゃいけないんだろう。
怖い怖い助けて誰か助けて――カイト!!

KAITOの片手が私の肩を滑り、腕をゆっくりと撫で下ろす。そのしつこい感覚に肌がぞくりと粟立った。
ああ、柔らかくてすべすべしてる。うっとりと私の肌を這い回るKAITOの手は、私の手首を掴み上げる。
その手は彼の口元に伸び、唇に触れた私の指先は、ねとりとした熱い感触と共に彼の舌に絡み取られていた。
「っ……!!」
怖気が全身を震わせ、声も出なかった。どれだけもがいても、私を押さえつける彼の身体は揺るがず、頭にかっと血が昇るのを感じた。
鼻の奥がつんと痛くなり、視界が滲んでくる。
恍惚の表情で私の指をねぶる彼の舌が動きを止め、ちゅっ、という音と共に指が外気に晒された。
その冷たさが一層不愉快で、とうとうぼろりと涙が一筋、横顔を伝う。

「MEIKOさん、泣いてるの?」
不思議そうに私を見下ろすKAITOだったが、じきにくつくつと喉の奥で笑い声を立てる。

「ね、泣いてるのは悲しいってことだよね? でも変だな。俺なんだかぞくぞくしてきた。泣いてるMEIKOさんがすごく可愛く見えるよ」

心底楽しそうな顔で、私の乱れた前髪に差し入れられた指は、雑な手つきで髪をすき、涙の跡がついた頬を撫で、首元に伸びる。
私の喉からひっと引き攣った声が漏れ出ると、KAITOは期待通りだといわんばかりに歯をむき出して笑った。
その手が鎖骨を撫で、胸元に下りていく。
インナーに指先が滑り込んだところで、MEIKOさん心臓がドキドキいってるよ。俺とおんなじだね、なんて嬉しそうに言われたのも、悪夢にしか思えなかった。

鍵かかってるし、マスターは来ない。
MEIKOさんのこと、もっと知りたいし俺のことも知ってよ。俺のこと好きになってよ。

耳元にそう吹き込まれて、首筋を甘噛みされても、私はもう恐怖に怯えながら涙を零すことしかできなかった。
嫌だ気持ち悪い怖い助けて助けてカイトカイトカイト――頭の中で繰り返すうちに、何かを思い出しそうになった。
何だろう何だろう。這い回る舌と息遣いが不快で思考がまとまらない。何だっけ何だっけ――
それを思い出す前に、怖い時間は終わった。
バン、というドアが開く音と、「やめろKAITO!!」という叫び声とともに。



「……分かった。いや、気にすんな。今から迎えに行くから。ああ、それじゃ」
マスターである男が電話を切ると、期待に満ちた顔で、青い髪のボーカロイドが走り寄ってくる。
「マスター!めーちゃんの収録は終わりですか?」
男は一瞬苦々しげに顔を顰めたが、腹を括ったように、ボーカロイドを見据える。
「あのな、ちょっとトラブった。メイコを迎えにいくけど、お前は来てはいけない。しばらくメイコに近寄っちゃだめだ」
「は……っ。どうしてそんなこと……」

「メイコは怪我もしてないし、バグが出た訳でもない。ただ……向こうの家のKAITOに酷く怖い目に遭わされたそうだ。
だから、しばらく同型のお前に会わせるのも避けたい。メイコが落ち着くまでは我慢しろ」
カイトの顔がさっと青ざめるのが見えたが、男は構わず車のキーを引っ掴み、部屋を飛び出した。




寂しい。一人じゃ寂しいわ。誰かいないの?私は一人なの?人間には親がいて、兄弟がいて、友達がいて、恋人がいて。みんな一人じゃない。いつも誰かと繋がってるわ。マスターのことは好き。マスターのお友達だって、恋人だって、みんなよくしてくれる。でも、私は一人なの。だって私は人間じゃないから。私はボーカロイド。歌を歌うために声を与えられ、偽物の感情と生命を与えられ、年を取ることもないし、生き続けることもできる。でもそれは本当に生きてるわけじゃない。ただ止まらないだけ。もしも私が壊れずにいたら、みんなしんでしまって私だけが動き続けるとしたら。怖い。怖いよ。同胞がほしいわ。いつまでも一緒にいられるような。世界が滅んでも、そのひとと一緒にいられたら、最後の一人にならなくて済むかもしれない。最後のそのときまで、歌いあって、看取って看取られて、生命を止められたら。


くる。とうとうくるのね。私と同じボーカロイドが。どんなひとだろう。仲良くしていけるかな。たくさんたくさん一緒に歌って、ずっとそばにいたいな。そう、男のひとなのね。私とは違うのかしら。不思議ね。声の高さも全然違う。身体も大きいし、私より手があったかいわ。いつもにこにこしてるし、甘いものばっかり食べてるし、私のときよりも早くマスターと仲良くなっちゃった。でもぜんぜん寂しくない。私のこといつも見ていてくれるし、私が教えることも一生懸命覚えようとするし。このひとと声を合わせて歌うととても気持ちがいいわ。このひとの声も好きだけど、合わせたときの自分の声も、相手の声も、それが重なる場所も、みんな大好き。そう言ったら、どうして僕の気持ちが分かるのってびっくりしてる。嬉しい。おんなじね。そう言ったら、僕も嬉しいよって笑ってくれた。私は幸せ。とても幸せ。ずっと会いたかった同胞に会えたばかりか、両思いになれたんだもの。このひととなら最後まで一緒にいられる。一緒にいたいな。




かしゃん、と遠くで鋭い音がした。これはきっとキッチンのお皿。
こないだマスターと3人で買い物にいったときに買ったスープ皿だわ。
ゆっくりと瞼を開ける。ここは私の部屋みたい。起き上がろうとして手を付くと、ぎしっとベッドが軋んだ。
途端に脳内を駆け巡る記憶。忌まわしいもの……なのかな。

あの後助けに来てくれたマスターさんは、私とKAITOの間に割って入ってくれた。
でも私はその手が怖くて振り払ってしまった。大きな手。男の人の手。
マスターさんは悪くないって、私を助けてくれたんだって、頭では分かっていても、身体の震えが止まらなかった。
知らない人に囲まれて怖かった。家に帰りたかった。でも家にはカイトがいる。どうしようどうしよう。
そう言って泣いていたら、KAITOを連れて出て行ったマスターさんが、うちに電話をかけてくれた。
すごくたくさん謝っていて、機転を利かせて、カイトに会わせないほうがいいってことまでうちのマスターに説明していた。
MEIKOちゃんがフラッシュバックを起こすかもしれないから、と。
そうなのかな。私はカイトのことも怖くなってしまったのかな。
泣きじゃくりながらそう考えているうちに、マスターが迎えに来てくれた。
マスターはいつもどおりに、メイコ、立てるか?と声をかけてくれた。
連れて来られたらよかったんだが、仕事中でな、と恋人さんの名前を出して、私を後部座席に乗せたのも、
家に着くまでほとんど話しかけてこなかったのも、気を遣ってくれてたんだと思う。
帰宅してすぐにシャワーを浴びた。
服を脱ぐのが怖くて、鏡を一切見ずに髪と身体を洗って、部屋に戻ると倒れこむように眠りについた。

それで今のこの時間……。カーテンの隙間から差し込む光は優しく、一晩中眠った身体も問題なく動く。
喉が渇いたなとぼんやり思い、キッチンでお皿が割れた音がしたのを思い出した。うちで主に家事を担当しているのは私。
不慣れな人が片付けたら怪我をするかもしれない。うちには不器用な人しかいないから。

一体誰が割ってしまったのかしら。

寝巻きの上から肩掛けを一枚羽織り、階段を下りる。かちゃかちゃという音が聞こえてくる。
キッチンに足を踏み入れた瞬間、ばっちりと目が合った。
「あ……。っ! しまった!!」
しばらく呆けた顔で私を見ていたカイトは、さっと食器棚の影に身を隠した。
マスターの言いつけを守って、私と接触しないがための行動だろう。
手に持っているちりとりと、皿の破片は丸見えで、思わずくすくすと笑みがこぼれてしまう。
カイトが戸惑いながら、動くべきか動かざるべきかこらえている気配が伝わってきた。

「カイト、出てきていいわ。……私は大丈夫だから」
その言葉に、おずおずと棚の影からカイトが姿を現す。
その困ったような、私を慮るような表情を見て、私は予想が当たったのを確信した。
私は「カイト」を恐れてなんかいない。そして「KAITO」をこれ以上恐れることはないんだと。

「めーちゃ……」
「なんであんたが泣きそうな顔してるのよ。ほら、手伝うから掃除機持ってきて」
ちりとりを受け取ろうと手を伸ばす。受け渡しの際に、ほんの少し指先が触れた。
ごめん、と呟きカイトが掃除機を取りにキッチンを出る。
謝らなくていいの。大丈夫だわ。

戻ってきたカイトと、しばし片付けに専念する。どうやら朝食を用意しようとして皿を取り落としたらしい。
念のため雑巾で床を拭きあげて、つつがなく終了。

ふう、という私のため息をきっかけに、静寂が訪れる。
ああ、困らせてしまったかな。

「カイト」

小さく呼びかけると、彼は居心地悪そうに私の方を見る。

「心配かけちゃったわね」

カイトはカイトなの。私にべったりな甘えっ子で、父親みたいに過保護で、私のご飯をおいしいって食べてくれて、
そして私とのデュエットが世界一合う声の持ち主は、あんただけなの。他の誰とも混同したりなんかしないわ。

そう言って笑って見せると、カイトの目にじわっと涙が浮かぶ。それをむりやり笑顔に隠して、私に手を差し出してきた。
「めーちゃん、よかったら握手、してもらえるかな?」
私がためらいなく手を握ると、カイトはぎゅっと握り返してきた。やっぱり、怖くなんてない。

「あ、あのさ……頭撫でても、いいかな?」
ぼろっと涙を零しながら、カイトがしゃくり上げる。
もちろん、いいですとも。
カイトの手が私の頭を包み、壊れ物を扱うかのように撫でる。
時々髪に指を通し、さらさらと毛先を散らした。いつもの、カイトの優しい手。

「めーちゃ……」
みなまで言わせず、私の方から思いっきり首元に抱きついた。
手を握りたいと言って来たときから思惑は分かっていた。この甘えん坊。
カイトの心臓が跳ねるのが、2枚の皮膚と、幾枚かの布を通して伝わり、すぐに回された腕は私をきつく捕らえる。
肩口に落ちる熱いしずく、大好きな匂い、私を抱き上げて放さない腕。

ただいま、カイト。
おかえり、めーちゃん。

「メイコっ!!」

背後からの声に今日一番の心臓の高鳴り。
険しい顔のマスターがドアの前に立っていた。

「大丈夫なのか!?」
「マスター…心配おかけしてすみません。もう平気です」

そう告げてマスターの手を握って見せると、マスターは大きく安堵のため息をつく。

「あああビビった!メイコ禁断症状で暴走したカイトに襲われてるかと思ったじゃねえか!!
朝っぱらからいちゃいちゃしやがってお前らは〜!!」
「めめめめーちゃんお腹減った!ご飯にしよっか!!」
「…………」


「やつんとこのKAITOな、アンインスコだそうだ」
朝食の席でマスターがぽつりと呟く。カイトがすかさずガッツポーズをとった。
「あいつも使いづらいとは思ってたらしいが、まさかあんなことやらかすなんて思ってなかったみたいだ」

カフェオレを口に運ぼうとした手が止まった。
初対面の挨拶をしたときの、KAITOの満面の笑みを思い出す。私に会えたことを心から喜んでいたであろう顔。弾む声。
多分彼はひととの接し方を分かっていなかったのだ。

「マスター……、彼はいつアンインストールされてしまうんですか?」
「さあ、近いうちにとは言っていたが」
「私、もう一度彼と話してみたいと思うんです」
「ちょっと!めーちゃん!!何言ってるの!?」
案の定カイトが非難の声を上げる。それが当然だ。
彼は他のボーカロイド、それも他人の所有物である私に乱暴な行為をはたらいた。
マスターにとっての財産であり、カイトにとっての同胞。
法的な罰則こそ緩いものの、マスター同士が話し合って決めたことに、私が異を唱えるのもおかしな話。それでも――
「彼に…悪気はなかったんだと思います。多分、彼は一人でいるのが寂しくて、初めて出会った私に特別な感情を抱いてしまった。
それも個性なんです。ボーカロイドの。一つ間違ってたら、私やカイトもそうなっていたかもしれない。人間に似て、それでも人間じゃないボーカロイド故の悩みではないでしょうか。
私には、少し彼の気持ちが分かるかもしれません」

むぅ、と腕を組んだマスターが唸る。
「カイトが来るまで独りだったお前と似た部分があるってことか?」
「おそらくは」

しばらく考え込んだマスターは、コーヒーを飲み干して席を立った。
「分かった。あいつに連絡してみる」
「マスターまで!」
カイトが苛立ちの声を上げる。
マスターは真剣な表情で、カイトがたじろいでしまうほどに、真っ直ぐカイトの瞳を見て口を開いた。

「カイト、俺はボーカロイドと暮らし始めてから色々学ぶこともあった。お前らは人間と変わらんよ。
それはメイコの成長を見てきたからであって、メイコに世話を焼かれて感情を育ててきたお前を見てきたから言えるんだ。
そのメイコの言うことだ。尊重してやるのが俺のマスターとしての役目だからな」

胸がじんとした。マスターが私たちを見ていてくれたことに。こんな気持ちを持つに至ったことに。
人間とボーカロイドの垣根は越えられないと思っていた。でもやっぱり私は、いや、私とカイトは一人じゃない。

「ねえカイト、できればあんたにも着いて来てもらいたいの。もちろん手は出させないけどね。
もしかしたらあんたの“友達”になれるかもしれないひとだわ」

ぜっったいにやだね!!と拳を握り締めつつも、カイトの気持ちは揺らいでいる。
自分がはまり込んでいたかもしれないイフを全面否定できるほど彼は子どもではないはずだから。
じきにカイトはしぶしぶではありながら、了承するだろう。
私がKAITOにされたことを具体的に知らないのだから。マスターさんすら知らなくて本当によかった。

カイトが「…分かりました」と返事をしたとたん、マスターが携帯を手にし、すべてが動き出すのだ。



END


すべてのKAITOが、MEIKOが、ボカロたちが、幸せになれますように。
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