原曲 :GALLOWS BELL
 buzzG様 (http://www.nicovideo.jp/watch/sm11160488)



身を切るような凍える木枯らしが、靴の先がひび割れた青年の足取りをより一層重くする。
厚く垂れこめた鈍色の雲は一片の陽光も与えてはくれず、襤褸を纏った彼の歯はがちがちと鳴った。
また、長い冬が訪れようとしている。
着の身着のまま、飛び出してきた。
ささやかな荷物は肩に食い込む頭陀袋一つ。
それでも男は歩みを止めることはできなかった。
日暮れまでにどこかの村に着くためには、座り込んでいる暇などない。
水も食料もとっくに尽きていた。
痩せてからからになった土地では、人の手に頼らなければどちらも手に入れることは難しい。
とにかく前に進むしか生きる術などないのだ。

枯れ木の狭間に古ぼけた赤いショールを見止めたのは、足元も意識も覚束無くなってきた頃だった。
森の中で薪を集めていた若い娘は、汚い身なりの男に気づくと小さく声を上げた。
北風に当てられた紅い頬に、見開いた大きな目。
肩まで伸びた栗色の髪とショールの隙間から覗く白い首筋に、男の喉が鳴る。
周囲に人影もなく、絶好の機会だ。
三日前の彼なら躊躇いもせずたちどころに襲いかかっていただろう。
悲しいほどに憔悴しきった身体は泥のように重く、開いた喉はぜいぜいと濁った音を立てることしかできなかった。
冷え切った頬に何かが触れた。
至近距離で何事かを問いかける娘の唇が動いていた。
頬に手を遣ると、寒さで荒れた娘の細い指先がそこにある。
びょうびょうと吹く突風に流された途切れ途切れの言葉は、暖を取る場所に案内する旨を告げているようだ。
思考力の大半が失われた男は、首に縄を掛けられた家畜のように、少女の後を着いていく以外になかった。



GALLOWS BELL



***
遠くで鐘の音が聞こえる。
風に乗って微かに人々の歓声らしきものも。
かつて都に住んでいた頃は、暖かくなる時期には待ちわびていたかのように、連日のように結婚式が執り行われていたことを思い出す。
貴族も平民もこぞって浮かれ踊る傍を、日陰者の自分は人混みを避け足早にねぐらへと急いだ。
彼女とならば自分もその輪に加われただろうか。
はたまた、輪の中心で煌めきに包まれていただろうか。
男は横たわったまま、何も映さぬ虚ろな目を閉じ切らず、錆びつきつつある脳だけを回転させていた。
身じろぎをしたところで、四肢や首に巻き付いた鎖が冷え切った床と擦れて、じゃりじゃりと鉄臭い音を響かせるだけだ。
無駄な行為に費やすくらいなら、衰えていく命のすべてを、彼女との時間を反芻するためだけに使おう。
あの雪の日に目覚めたところからを。



***
燻された木の匂いと、身体を覆う薄い毛織物の感触。
覚醒とともにまず目に入ったのは、かまどで音を立てて燃える薪だった。
習い性でじっとしたまま周囲を観察すると、人の気配があった。
こちらに警戒する風もなく、椅子に腰かけたまま手芸を、おそらく刺繍を刺している。
その姿は記憶の隅にあった。
やおらに身を起こすと、少女は紅茶色の瞳を細め、嬉しそうに笑った。
「おはよう、旅人さん」
「……ここは?」
「私の小屋よ。冬の間は納屋にしているから、今は住んでいないのだけれど」
行き倒れかけた彼はここへ案内され、温かな炎と風雨を凌げる屋根に安堵し意識を手放したことを思い出した。
娘はパンと葡萄酒を男に差し出した。
毒が盛られている様子は見えないが、男は用心深く受け取り、少しずつ口にする。
香ばしい小麦の味を舌に感じ、自嘲の笑みが零れた。
満身創痍の状態で呑気に寝ていたのに今更警戒も何もない。
脱がされていたことにも気づけなかった靴の爪先は、急ごしらえながらも丁寧に修繕されていた。
「助かった。……ここには誰もいないのか」
ええ、私一人だけ、と頷き彼女は自分も葡萄酒を傾けた。
……また、だ。不用心に寛ぐ娘に、そのこくりと鳴らすたおやかな白い喉に一瞬、邪な衝動を覚え、すぐに思い断つ。
彼女は信頼できる、と潜在的な直感が告げたのだ。
今までの自分が他人に心を許すことなどなかったはずなのに。


過酷な冬の原野を飲まず食わずで踏破してきた男は、自身が思っていた以上に衰弱していた。
一度ぷつりと切れてしまった緊張の糸は、高熱の形で彼の身を苛み、彼を拾った娘は献身的な看病を続けた。
熱も下がり、寝床から半身を起こせるくらいに快復した男は、他者から受ける無償の親切に戸惑う一方、幼少の懐かしい記憶を久方ぶりに思い出していた。

蒼い目の少年は、街からほど近い山の中に母と二人で暮らしていた。
たまに母に手を引かれ街の市場を歩くこともあったが、母親は彼を必要以上に人々の集まる場所に近づけたがらなかったのだ。
才女であった彼女は街の子どもたちと同じように、少年に勉学を教え、また森で暮らすために必要な知識や経験を与えた。
覚えの良い彼は、そのすべてを器用にこなして見せ、母を喜ばせた。
それなのに、それなのに母親は幼い息子を置いて二度と戻らなかったのだ。
母がどこへ行ったのか、なぜ帰らないのか、彼には何一つ解らなかった。
しかし母がもう帰らないと悟った日、カイトという名の少年は彼女が出掛けに遺した言葉に従って、自らの生きる道を自ら考え選び取り、街へ降りて行った。
母から学んだ知恵があれば、彼は街の中でも山ででも暮らすことはできた。
どんな仕事もこなせるであろう自信もあった。
彼が街を目指したのは母をなくした人恋しさか、知識でしか知らない暮らしへの憧れか。
それが正しいことだったのか、間違いだったのか、カイトには今でも解らない。


粗末な扉を引くと、薄暗い部屋に夕陽が差した。
「おかえり、カイト」
豆の鞘を剥いていた娘は穏やかに微笑む。
日が落ち切る前に戻ってはこられたが、窓のない納屋にはもう冷たい夜の気配が満ちていた。
「……これ」
仕留めてきた雁の首を差し出すと、彼女はぱっと顔を輝かせた。
「嬉しい! 大変だったでしょう。怪我、しなかった?」
かぶりを振ると、娘は安心し、彼の手を引き中へと促す。
山育ちは長い。
鳥やウサギを狩ることなど朝飯前だ、と言いたいところだが、この寒さでは動物たちも皆陰に潜み、見つけ出すのに難儀したのは事実だ。
「……メイコ」
まだ帰らなくていいのか、と目で問うと彼女はさらさらした髪を揺らし、頷いた。
名をメイコという茶色い髪と目のすらりとした娘は、近くの村に住んでいる。
農耕期にはこの小屋に寝泊まりすることもあるが、冬の時期は村の中の小さな家で、編み物や刺繍をしながら、村の共有財産である備蓄の小麦や干し肉を細々と分け合って生活しているという。
たまに薪を取りに来る以外ここには立ち寄らないはずだった。
が、カイトがここに身を隠してからというもの昼の間だけ頻繁に訪れるようになっている。
それは、娘に身寄りがなく、しばらく姿が見えなくなっても誰も気に留めないからだとメイコは笑った。


「メイコの家族は?」
随分うなされていたカイトの熱が下がり、口が利けるようになったことを手放しで喜ぶメイコに、隠しきれない疲労の色を見て取ったカイトはそう尋ねた。
高熱に浮かされ多少意識が飛んでいるところもあったが、快癒には数日かかっているはずだ。
その間この娘は半日と置かず、カイトに付きっ切りだったように思えた。
「……私は一人なの。母は妹が産まれてすぐに死んでしまって、父も、飢饉の年に病で。5つ下の妹は……」
メイコはそこで言葉を切り、けれどもすぐに軽く首を振って話を続けた。
「私が9つの歳は春が来るのがとても遅かったせいで、作物がほとんど採れなかったの。何とか冬を越すことはできたけれど、食べ物がなくて……。父が亡くなってからは、村の人たちに食べ物を恵んでもらいながら、妹と二人で何とか生きてたけどそれも限界が来て」
暖炉の薪がぱちんと音を立て、続きを促す。
「夏の暑い日だった。5つになったばかりの妹と井戸に水を汲みに行ったら、遠くの街から行商に来たご夫婦がいてね。身なりも綺麗で優しかった。パンを少し分けてくれたの。妹を見て、こんな子供が欲しかったわねって微笑むから、私一生懸命お願いしたの。どうかこの子を連れて行ってください、言いつけも守るしよく働くいい子ですからって」
「妹とはそれっきり?」
「ええ。もう二度と会えないとその時に覚悟したから。どこの町に行ったかも分からないし、生きているのかさえも。でもきっと楽しく暮らしてるって信じてる。貧しい私の身の上を汲んでくれた二人は、この子を幸せにするからって約束してくれた上に、私に当座暮らしていけるだけの銅貨も施してくれたの。おかげで私は次の収穫まで生き延びることができた。妹にはこんな辛い生活の記憶は忘れて、幸せに暮らしていてほしいな」
だからあなたの事、放っておけなかったの。
寂しそうに苦笑するメイコに、カイトは鈍い痛みを覚えた。
この人も自分と同じ、遺された側にいるのだ、と。
他者を思い、自身と重ねたことなど初めてだった。
他人とは自分と異なるものであり、自分はこの世に独り遺されたものばかりだと思っていたからだ。


鶏が暁を呼び、烏が夕闇を連れてくるまでの時間は随分長くなった。
からりと晴れた初夏の午後、メイコは繕い物の手を止め、隣で木に背を預けてうたた寝をしているカイトの青髪を梳いた。
澄んだ湖に煤を溶かしたように、ややくすんだ蒼い髪は、硬く真っ直ぐで指通りがいい。
長めの前髪を横に流してやると、軽く閉じた瞼が木漏れ日に顰められる。
髪よりも深く鮮やかな濃紺の瞳は、いつも物静かで鋭い。
だが、周囲に気を許した寝顔はてんで幼く、新しい発見をしたメイコは愛おしそうに笑みを零した。
決して広くはないが、一人で世話をするには手に余る痩せた畑。
夜も明けきらぬうちから井戸と畑を往復し、鍬を振るい、水を撒く。
家に帰る頃には星が見えているのが常だった。
今年の春からはカイトが力仕事を中心によく助けてくれるため、夕食を食べる気力もなく寝床に倒れ込む日常は一変した。
昼下がりには畑を見下ろす丘の木の下で、午睡を取ることができる程に。
「――ん、メイコ?」
まどろんだまま、カイトは目を瞬かせた。
草の香を含んだ風が爽やかに頬を撫でる。
「カイトって、歳はいくつなの?」
柔らかい毛先をふんわりとなびかせメイコが小首を傾げた。
カイトは逡巡し、平静を装って答えた。
「じゅう、……ななかな」
「あら、じゃあ私の方が少しお姉さんね。私はもうじき19になるの」
やっぱりそうだわ、とメイコの声は弾む。
「どことなく弟みたいな感じがしてたの。あ、頼りないって意味じゃなくて、ね。世話を焼きたくなるって言うか……。逞しいんだけど、何だか可愛いのよ」
照れたようにはにかむメイコの方が可愛い、と口に出しそうになって慌てて唾を飲む。
歳の差は、少しなどではなかった。
カイトが生まれてから冬を越した回数は、両手の指で足りてしまう程だ。
体格に恵まれていた彼は、街から町へと住処を変える度に、日々の職を得るために、偽る歳の数を少しずつ上乗せしていった。
日陰で生きてきた彼の嘘は誰にも気づかれることなく、また彼に興味を持つものもほとんどいなかった。
自分の本当の歳を思い返したのはいつぶりだっただろうか。


まだふらつく身体を気丈に支え、出ていこうとするカイトをメイコが引き留めたのは、どこか危ういものを感じたからだと後に彼女は彼に語った。
出会った時すでに息も絶え絶えだった彼を看病したのは単に身を案じていたからなのだが、その時は違った。
愛想がないのも無口なのも生来の性なのだとは見て取れたが、何かに追われるように、油断なく辺りを気にする仕草の彼を放ってはおけず、思わず引き留めてしまったのだと。
行くあてもなく目的地も決まっていないと告げたカイトは、しばらく小屋にいることを勧められた。
見知らぬ土地で、情報も手に入らないような村外れに長く逗留するのは危険だと本能が告げていた。
しかし、一方で疲れも出ていた。
このまましばらく潜んでいても、この娘以外と顔を合わせることはないだろう。
裏表のなさそうなメイコが自分を密告することは考えにくい。
そう思いたかった。
少し迷ったが、薪を運んだり狩りで肉を手に入れてくることを条件に、彼はメイコの元に留まることを決めた。
手当てをしてくれた娘への恩返しの気持ちもあった。
また、人目には触れず、身体を鈍らせることもない稀有な環境でもあったからだ。

約束は春が来るまで。
ところが、雪が解けて野に花が咲く頃になっても、小さな納屋で寝起きするカイトに、村から通ってきたメイコが世話を焼く生活は続いた。
やがて摘播の時期になり、ささやかな日用品を携えてきたメイコは、例年そうしてきたように小屋に移り住み、当たり前のように二人は並んで畑に立っていたのだった。



***
……思考が定まらず、記憶は飛び飛びに前後している。
出会った時の事、冬の日々、春の訪れ、夏の頃――。
全部、全部大切な記憶。
一秒たりとも忘れてはいけない事なのに、要所にあった思い出が砂のように崩れていく。
あの日から最期の瞬間までを脳裏で繰り返すたび、そのサイクルがだんだん短くなっていることに男は怯え、悔し涙を流す。
忘れることでまた一つ罪が増えていく気がした。
失くしてはいけない。
彼女の事を知っているのは自分しかいないのだから。
大丈夫、ここからは時系列にそってしっかり憶えている。
大事な出来事があったのだから。



***
頭上に転がり落ちてくるかのような、大きな満月の夜だった。
そっと開けた小さな納屋の扉。
その微かな軋みに、部屋の奥から聞こえる衣擦れの音が重なり、ドアの隙間をこじ開けてメイコが転がり出てきた。
「カイト!」
夜風を切ってきた肩に手をかけ、ぺたぺたと頬に指が触れる。
まるで何かを確かめるかのように。
「……メイコ、まだ起きてたの?」
もうとっくに就寝しているであろう彼女を起こさないように、静かに帰ってきたつもりが、当てが外れた。
炯々と光る瞳には焦燥が浮かび上がり、とても眠っていたようには思われなかった。
「何言ってるの! こんなに遅くまで……心配したんだから」
「あー、ちょっと散歩に行きたい気分だったんだけど……、ごめん。何も言わなくて」
「いくらあなたが夜目が利くって言っても夜は危ないのよ。獣にでも襲われてたらどうしようかと思ったわ!」
宥めたくて、背伸びをして詰め寄るメイコの頭を遠慮がちに撫でると、少し落ち着いたようで、ふっと力が抜ける。
「黙って出ていかないで。……一人になるのはもう嫌なの」
拗ねたように目を伏せるメイコの手はしかし、カイトの服の裾を掴んだままで。
その真意を測り切れず、カイトは狼狽えた。
解らないのではない。
まさか誰かが己の事に心を砕くなどあり得ないと思っていたからだ。

「メイコは、俺がいなくなったら困るの?」
「それは! もちろん困る……けど、成り行きで引き留めてしまってるのは事実よね。でもお別れはきちんと言いたいわ。だから黙って行ってしまうのは無しにして」
恐る恐る尋ねた問いに、メイコは勢いよく、しかし後半は寂しげに返した。
意を決して薄い寝巻の背に触れると、彼女は不安げに瞳を揺らして長身のカイトを見上げる。
「大丈夫だよ。当分お世話になるつもりだから。行先は今のところ保留中だ」
目で笑ってみせると、メイコはやっと安心したように破顔した。
そのあどけない仕草さえも、カイトの心をかき乱す。

「でも少し喉が渇いたから水を飲んでくる。ついでに明日の分も汲んでくるから桶を貸して」
メイコは、懲りないわね、と呆れ顔で、それでも行先を告げたカイトを信用してか快く桶を差し出した。


薄着で外を歩くには格好の夏の宵。
もったりとした闇の中で、足早に歩く男の顔面は、歯を鳴らしてもおかしくないほどに蒼白だった。
小川のせせらぎが耳を打ち、小さな納屋から大分離れたのだと分かると、我慢できずに両手でがばっと口を塞ぎ息を止める。
簡素な桶が草むらに転がり夜露を散らした。
風のない夜だった。
澱んだ空気は隠しきれていただろうか。
血の匂いを。

浅瀬の水を無遠慮に蹴散らし、足をもつれさせた男は膝から頽れる。
心臓が破れてしまいそうなほど鼓動は速く、手はがたがたと震える。
何故こんなに怯える。
何を恐れている。
こんなに怖じるのは初めてだ。
誰にも負けなかった。
どんなことでもこなしてきた。
不安を感じたことなど、ない。
たった今、人を殺してきたくらいなのだから。



***
大事な銅貨が路地裏の泥にまみれて、月明りを鈍く反射していた。
肺の奥まで煤に侵される、過酷な煙突掃除の日当だ。
なけなしの給金を奪い取ろうと少年に殴り掛かってきた酒浸りの中年親父は、どろりと澱んだ眼を半開きにして地に臥せっていた。
暴漢よりも細く短い腕の少年は、大人を返り討ちにして佇んでいた。
その青い瞳には恐怖も悔恨も浮かんではおらず、彼はただ、明日からの食い扶持をどう稼ぐかを静かに考える。
やがて、どっとはじけるような浮かれた笑い声と、ちらちら揺れるカンテラの明りが、角の向こうから近づいてきた。
眠るためだけにある小汚い彼のねぐらはすぐ目の前だった。
迷いもなく泥を掻き、穿りだした銅貨を握り締め、少年は街の門を目指し走り出す。
日が昇る頃には余所の町で日雇いの仕事を見つけねばならなかった。


町はずれの運河で、パン屋の娘を葬った。
「あんた、ここで働いてるの? 毎朝黒パンを買って行ってくれる人でしょ」
刺繍入りのエプロンドレスにおさげ髪の勝気な少女は、薄暗い店の奥からではなく、少年が働く工場の脇道でそう話しかけてきた。
「ねえ、あたいはあんたに惚れてるんだよ。家を教えてよ。パンをたくさん持って行ってあげるからさ」
甘えた声ですり寄ってくる娘に、少年は嫌悪感と警戒心を抱いた。
得体のしれない馴れ馴れしい笑みを気持ち悪く思った。
彼の胸の内など知る由もなく熱っぽい視線で媚を売る娘の横を、少年は無言で振り切り、すり抜けて立ち去った。
が、翌日の晩、遅くまで働かされ工場を出た彼を、街灯の下で彼女は待ち伏せしていた。
「あんたはどこに住んでるのよぅ。案内してよ」
足を止めた彼が再び歩き出したのを肯定ととらえた娘は、だらだらと話しかけてきた。
家には戻らず町中を適当に歩き、娘が寒いと文句を言いだす頃には、人気のない川べりに着いていた。
穏やかな水面がゆらゆらと月の光を反射し、その光景に不満を垂れていた娘もうっとりと感嘆の声を漏らす。
「綺麗ねぇ、あたい夜にこんなとこ初めてきた」
満面の笑みで振り返った娘の眼は何も捉えることはできず、そばかすの愛らしい頬が緩むことは二度となく。
物言わぬ娘の身体は、舫い綱を切った小舟に横たえ、上から布を被せられると静かに岸辺から滑り離れる。
曲水の上に乗った小舟は、音もなくただ映る月を散らしていった。


「頼むよ、ヘマしちまったんだ」
軽薄な仕草と愛想笑いで「仕事」を頼みに来た、のっぽの若い男が彼を呼び出したのは3回目だった。
だらしなく椅子に腰かけた青年が段取りを口にするのを彼は黙って聞き、最後に頷いた。
「でかした! 今夜はよろしく頼むぜ」
機嫌よく酒をあおる青年は、店の奥のテーブルからごろつき共に見られていることに気づく様子もなかった。
そろそろ潮時か。
二人分の勘定をほとんど手つかずのジョッキの横に置き、彼は店を出た。
路地の中を一度として同じ道を通らずに帰宅するという、この町に来てから欠かすことのない日課通りに歩き、狭い家の中の乏しい荷物をほとんど処分する。
僅かばかりの路銀を手元に残すと、しばらく住んでいた部屋から、人のいた痕跡は見当たらなくなった。
その執着心のなさといったら、ひと夏の行動を共にした相棒を容赦なく切り捨てることになんの感慨もないほどだった。
「おい! 助けてくれよ! 俺たち仲間じゃねえか!」
最期まで喚き散らした青年がようやく静かになると、彼は死体の懐をまさぐり、元相棒の取り分だった戦利品をもすべて自分の手中に収めた。
振り返りもせず、微かな月の明りを頼りにその足で町を出る。
じきにごろつき共が青年の死体を見つけ、何も持っていないことに気づき彼の足取りを追うだろう。
荒野に紛れた彼は、一晩中歩き続ける覚悟で荷を背負い直した。


「畜生! お前最初からこのつもりで!」
髭面の商人が吐き捨てる。

「お願いします、この子はまだ小さいから許して!」
若い母親が幼子を抱きしめる。

貧民街の娼婦。
私腹を肥やした役人。
街角で鞠をつく少女。

年老いた男。
若い女。
醜い女。
厳つい男。
臥せる男。
笑う男。
泣く女。
女。
男。
人。
人。
人。
人。


最低限の言葉しか喋らず、怠惰過ぎず勤勉過ぎず、存在を限りなく薄くして人の輪に足を踏み入れた少年は、希薄な人間関係の中で学んだ。
弱者に近づいてくる者の目的は、奪うためだ。
どんなに息を殺しても、悪意の目からは逃れられない。
死にたくなければ気配を消して、危険を感じたらすぐに逃げる。
逃げ切れない場合は、殺す。
用心深い彼は、二重の安全策を講じ、結果流れ者に落ち着いた。

自分の懐に入ってくるものがいれば度々殺した。
生きるためだと理由を付けて、その実厄介なことになるのを恐れ、ことある毎に住処を変える。
罪悪感は遥か昔に置き忘れ、繰り返される行為に安堵を覚え、やがて慣れていく。
習慣は嗜好へ、嗜好は依存へ。
返り血を浴びる高揚感を自覚したのはいつからだろうか。

時に苦悩しながら、時に昏い歓びを感じながら、彼はただ進む。
誰も彼の名を知らず。
誰も彼の心を知らず。
誰も、彼を知らず。

だから、その懺悔はいつも月に向かって。



***
心地良い冷たさの流れが、カイトの腿に染み込んでいた黒ずむ血を溶かし、洗い去る。
彼の物ではないその赤い雫の主の顔さえよく見ないままだった。
堪え切れない衝動が彼を凶行に駆り立てた。
きっと狩りを5日に1度に減らしたせいだ。
柔らかな草を存分に食み丸々太った動物や、春に生まれた魚をたらふく食べた鳥は、二人の食卓を彩るのに欠かせない。
だけど、いくらなんでもこんなに食べられないわ、とメイコが苦笑するのだ。
「カイトは本当に狩りが上手ね。ごはんの作り甲斐があるわ」
彼は地頭もよく、手先も器用だった。
しかし、それを褒めてくれたのは幼い頃に別れた母だけだ。
メイコはカイトの手をそっと撫で、カイトの眼を見て労いの言葉をかける。
母ではない、他人。
母に対する安らぎの記憶とは違う、胸をざわめかせ、多幸感をこれでもかと煽る甘い声。
彼女は、他の誰とも違い、カイトを見ている。
カイトだけに話しかけている。
メイコに認識されるのは嬉しかった。
メイコに見つめられ、言葉を交わし、ちょっとした拍子に触れられる瞬間。
メイコとの接点を期待し貪欲に求めていることを自覚した辺りから、カイトの心を何重にも縛りつける鎖は僅かずつ外れてきていた。
同時に、砕けた鎖の欠片が胸に食い込み、心臓が軋み抉られる。

このままずっとここで暮らし続けたい。
メイコと共に起床し、食事を摂り畑の世話をする。
水を汲み、火を熾し、葡萄酒を傾けながら針仕事をするメイコを眺め、二人で床に就く。
夏が過ぎれば実りの秋が訪れ、長い冬を耐えるとまた芽吹きの春がやってくる。
力仕事や山仕事を褒められ、不慣れだった人付き合いの方法を優しく教わる。
手を伸ばせばいつもメイコがいる距離に、その僥倖にカイトは慣れ過ぎてしまった。

慈しみを持って触れられた身体はその温かさを麻薬のように吸収し、耐え難い甘美なその悦びを際限なく求めてしまう。
もっと欲しい、指先だけではなく、腕も、頬も、唇も。
そして、誘惑に抗えずカイトの側から手を伸ばしたら最後――。

絹のように滑らかな栗毛の髪、ぴんと伸びた背骨を覆う真っ直ぐな背中。
気が狂ってしまうかと思った。

自分には無縁だった類の、熱。
視界の片隅に映るだけでなんの感慨もなかった、人同士の触れ合いを、こんな形で体験することになろうとは。
もしも、……もしも。
そのまま抱き寄せて、導かれるまま唇を重ねていたらどうなっていただろうか。

けれども、それはあり得ない。
カイトには、許されないことだ。

己の内の衝撞と戦い、勝ち目がないと判断した彼は逃げを打った。
蝋燭の灯のような温かいひかりに背を向け、惨めにも宵の川に転がり込んだ。
服に染み込んだ返り血は落とすことができた。
しかし、人を殺めすぎた両手はすでにふやけてしまうほどの血に塗れて、どれだけ洗っても元に戻るはずがなかった。
こんな手で自分は彼女を撫でられるのか。



こわいのは、あのこにきらわれること。
そして、あのこをてにかけたいとおもってしまったこと。
いとしい、かわいい、すきだ、あいしてる。
すきだすきだすきだ。
あいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるころしてしまいたいほどに。

馬鹿な。
俺は何を考えている!?
そんなことをしたらメイコに会えなくなってしまう。
……だけど、メイコが欲しい。
メイコのすべてを、この先ずっと、最期まで自分だけのものにしたい。


生まれて初めて芽生えた恋心を、きっと大切なものであろう狂おしい想いを、殺意でしか表すことのできない自分を、男は心の底から憎悪した。
母は何故、自分を人里に近づけたがらなかったのだろうか。
こうなることが分かっていたのか。
それとも環境がそうさせたのか。
答えてくれる存在はとうに亡かった。
誰も、彼を導く者はいなかった。



――今できること、まず血の匂いを消さなければ。
そして頭を冷やそう。
小川に倒れ込み、全身を沈めた。
水底の石を掻き、目を閉じる。
肺の中の空気をごぼごぼと吐き出し、月光から隠れるように水面を揺らした。
いっそ息絶えてしまえばいい。
そうすれば、もう悩む必要もなくなる。
役立たずのお前など、周りを不幸にすることしかできないのだから。

けれども愚かな身体は生きたいと願い、呼吸を求めた。
朱夏の水は、凍死するには温か過ぎた。


ぜいぜいと息を切らしながら、水の滴る頭を鈍く回転させる。
こんな格好で帰ったら何と言われるだろう。
また不安にさせてしまうだろうか。
そうだ、川に落ちたとごまかして笑い飛ばしてもらおうか。
いや、やっぱり怒られるな。
その様子を想像して、男は頬を緩め、力なく笑った。
ひとしきり自嘲したあと、少し泣いた。
満月は心のうねりを昂ぶらせるように、禍々しく彼を照らしていた。




後編に続く
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