笛の音にも似た甲高い鳴き声に仰向くと、天高く舞う鷲の姿は澄み切った秋空に溶けて行った。
抜けるような群青によく映えるのは、温かく包む日差しに光る黄金の穂、山と積み上げられた作物、浮かれ踊る人々。
恵みの秋は、人々の夏の働きを労い、冬の厳しさを生き抜く糧を育て上げた。
初めて村に足を踏み入れたカイトは、どこか懐かしい気持ちと、久しぶりに人混みに揉まれる緊張感が入り混じった目で辺りを見回す。
年に一度の収穫祭は、小さな村の一年分の娯楽を詰め込み大賑わいだった。
広場に並べられた色とりどりの南瓜の中には、メイコとカイトが世話をし育て上げた物も混じっている。

「賑やかでしょう? 本当は静かな村なんだけど、この時期だけはあちこちから人が集まってくるの」
大きな町から大道芸の一行も来るのよ、とメイコは声を弾ませ、カイトの手を引く。
町、と聞いて、ふと不安が胸をよぎる。
存在の痕跡はできる限り消してきたつもりではあったが、手配書が回っている可能性も考えられなくはない。
人の集まる場所は極力避けたかった。
しかし、収穫祭の時期には一緒に村へ行きたいと、メイコは夏の頃からずっとねだっていた。
根負けして約束をしてしまった以上、途中で帰るわけにもいかない。
それに、カイトをあちこち引っ張り回し、矢継ぎ早に説明をしたり感想を求めたりするメイコを見ているのは楽しかった。
圧倒されたと言ってもいいかもしれない。
カイトに自分の生まれ育った村のことを話すのがよほど嬉しいらしい。
カイトはそんなメイコを見ているだけで満足だった。

と、一人の中年女がメイコに手を振り声をかける。
彼女は快活な声で返事し、駆け寄って何やら談笑し始める。
メイコと話しながらもこちらに視線と好奇心を向けてくる女に居心地の悪さを覚えたが、すぐにメイコが振り返り微笑みながら手を振ってくる。
自分は何と紹介されているのだろうか。
噂話を糧としていそうな婦人はひとしきり驚いた後、納得したように頷いていた。
駆け戻ってきたメイコは、彼女のことを幼い頃から面倒を見てくれた隣家のおかみさんだと告げた。
村の中を歩いている間中、メイコはあちこちから呼び止められ、その都度明るい声で返事をしていく。
教会の前でパンとスープが振る舞われていること、小麦が例年より豊作だったこと、幼い子どもたちには貴重な砂糖菓子が一人一個ずつ用意されていること。
人の口から口へと様々な情報が飛び交い、カイトはメイコの横で聞いているだけで頭がいっぱいになった。
これほどたくさんの言葉の一つ一つを意味成すものとして処理した経験のないカイトの限界だった。

「メイコ! いつの間に彼氏できたの!?」
「やだ、違うってば!」
長い金髪をたなびかせた若い娘がいたずらっぽく笑う。

「今年の葡萄はいい色になったかね」
「とびっきりの紫よ」
樽に腰掛けパイプをふかす老人が手を振った。

ヤギを追う少年。
談笑する若おかみたち。
納屋の屋根で日向ぼっこをする猫。

荷馬車に乗る青年。
はしゃぐ孤児達を連れた神父。
酔い潰れた仕立て屋。
踊る少年。
歌う老婆。
笑う女。
泣く赤子。
男。
女。
女。
人。
人。
人。
人。

メイコは言葉を聴き、返答し、また別の者へ挨拶し、伝言する。
その合間にも、カイトに引っ切り無しに話しかけ、彼が相槌を打つと嬉しそうに笑った。
スカートの裾をひるがえし、くるくると動き回るメイコは愛らしく、眩しかった。
恐らく村の誰からも好かれているのだろう。
分かってはいたことだが、やはり自分は場違いな存在なのだということを思い知らされる。
彼女に惹かれているはぐれ者の自分と、一番近い距離から自分に慈しみを与えてくれる彼女。
けれども、通りに仮設された屋台から葡萄酒を差し出す農夫は、メイコにも、カイトにも分け隔てない笑顔で杯を渡した。
メイコの傍にいることで、カイトの世界も広がり始めていた。

「少しここで待ってて。品評会の案内を聞いてくるから。終わったら教会の子どもたちにお菓子を配りに行きましょう。カイトも一緒に、ね」
南瓜、豆、葡萄、そしてライ麦がメイコの畑から供出されている。
領主に納める分も差し引くと、収穫物は殆ど手元には残らなかったが、祭りの後で分配される分で冬は越していけるだろう。
まして、メイコの元にはカイトが狩ってきた獲物も加算されるのだから。
作物は村人たちに平等に分配されるが、品評会で良い成績を収めた者には褒美として少し多めの取り分が約束されているらしい。
ライ麦は多少粒が小さかったが、南瓜や葡萄はここ数年で一番よいものができたとメイコは意気込んでいる。
カイトは広場の小さな噴水の縁に腰掛け、メイコを待つことにした。
食べ物の匂いが漂い、誰も彼もが幸せそうな顔で行き交う。
決して豊かではないだろうこの村は、精一杯盛大な祭りを開き、一年の労を癒している。
今日ばかりは子供も年寄りも腹いっぱいに焼き立てのパンを頬張ることができる。
この日に合わせてお披露目された、大人の背よりも大きい女神の彫像は、村一番の職人の手によるものらしい、と通りすがりの男たちが話している。

毎年冬になれば、メイコは村の中の家で過ごしているのだと言っていた。
今年はどうなるのだろうか。
春までは小屋に住む自分とたまの逢瀬を繰り返すのか。
村には戻らず二人で小屋で過ごすのか。
はたまた、ここで二人で暮らすことになるのだろうか。
それとも――、メイコに別れを告げ、再び終わりのない放浪の日々に戻るのか。

「……さん、お兄さん、ちょっといい?」
ぼんやり考え込んでいたせいで、目の前に立つ人影にしばらく気づかなかった。
見上げると、長い髪をおさげにした少女がカイトを覗き込んでいる。
「……何か、用?」
「教会ってどこにあるのかしら」
淡い緑色の髪に青い目の娘は、旅の装束と荷物を抱えていた。
余所から来た見物客なのだろうか。
今日すれ違った中にはいない容貌だった。
この村には金や茶色の髪の住人が多い。
しかし、カイトと同じような青い髪や紫の目をした者もいないわけではなかった。
色よりも、その大きな瞳と意志の強そうな立ち振る舞いに既視感を覚え、胸が騒ぐ。
「さあ。俺は余所者だから」
「そうなんだ……。わたし人を探しているの。茶色い目と髪の若い女の人。わたしより少し年上ぐらいの」
どこかで見かけなかった? と期待を込めた眼差しに、背を冷や汗が伝い、咄嗟に目を逸らしてしまう。
「……いや、知らないよ」
掠れた声を絞り出すと、少女は首を傾げ、考え込むように腕を組む。
「この村でもなかったのかな……。ありがとうお兄さん。また他を回ってみるわ」
あっさり背を向けて立ち去って行く娘は、油断なく町並みを見回し何かを探し出そうとしていた。
行き交う人々だけではなく、建物の位置や立っている木の種類、煉瓦の並べ方までもじっと観察し、つまるところ、記憶の中の場所かどうかを確かめているようだった。
恐らく幼い頃に離れた故郷であるかどうかを、だ。

予感は確信に変わる。
同時に、もう限界が来たことを悟った。

少女はいずれ彼女に辿り着くだろう。


「カイト、おまたせ!」
明るい声が降ってきた。
耳に染み込む愛しい声に顔を上げると、メイコがきらきらと笑っていた。
「品評会は午後からみたいよ。丘のふもとの広場ですって。その前にお昼をどこかで食べましょう、……カイト、大丈夫?」
メイコは少し不安げにカイトの頬に手を伸ばす。
縋るような目で見上げる自分は、幼子じみた心細い表情をしていたのだろう。
寄せられた手を取り、無理やり口角を上げてみせる。
その柔らかさと脈打つ手首の感触を、憶えておきたかった。

今日はメイコの望む通りの相手をしよう。
その一方で、決心も固まった。
想いを伝えなければならない。
本当に身勝手で、メイコを泣かせても、逃げられても仕方がない想いを。

「そうだね。お昼を食べて、教会にも行かなくちゃ。時間は間に合うかな」
メイコは頬を薔薇色に染めて頷いた。
カイトが自分の提案を覚えていてくれたことがよほど嬉しかったのだろう。
両手で彼の手を取り立ち上がらせ、飛び跳ねんばかりに軽い足取りでカイトを先導する。


祭の余韻に浸りながら帰路に着いたのは月がすっかり真上に見える頃だった。
満月に近いその形は足元をおぼろげに照らし、影法師さえ見えるくらいだ。
カイトの左腕にはワインの瓶が抱かれ、メイコの右手には希少な白い砂糖の小包がある。
メイコの葡萄は特賞、南瓜は3等の成績を収めたのだ。
春のジャムに使うのは勿体ないし、パイを作ろうかケーキを焼こうかと砂糖の使い道をあれこれ呟きながらはしゃぎ歩くメイコは、解けてしまいそうな指先を時たまぎゅっと握り直す。
「メイコは本当によく頑張ったね。おめでとう」
カイトも握られるままにされていた右手の指先で、メイコの指をそっと握り返す。
「私だけじゃ無理だったわ。賞をもらえたのは今年が初めてだったもの。だから、これはカイトのおかげ。本当にありがとう」
「どういたしまして。メイコがそんなに喜んでくれたなら、頑張った甲斐があったよ」
「お礼に何でもお願いを聞くわ! ただし来年も手伝ってもらうけどね」
「そうだなぁ……。じゃあ、帰ったら少し話を聞いてほしい」
「もちろん、いいわ」
メイコは屈託なく笑う。
とうとう口火を切ってしまった。
一瞬尻込みをしそうになり、内心首を振って打ち消す。
もう、戻れない。



***
もし自分の生まれてきた意味が、生きてきた意味が、決められた運命が、辿り着く結末が、すべてここにあったとしたら。
それを否定することが、自己の否定と同義になるのだろう。
だから、迷いはない。
後悔もしていない。
けれども、もし別れを遅らせることができる道があったら、その答えはきっと知りたかった。



***
生来口数の少ない彼が、それを話し終えるまでずいぶん長い時間がかかった。
たどたどしく言葉を探しながら、詰まりながら、自分の正体と願いをすべて彼女に打ち明けた。
メイコは一切口を挟まず、ただ黙って最後までそれを聴いた。
冷やかしもせず、非難もせず、褒めもせず、一心に頷きながら真剣に聴いていた。

「ごめん、なさい」
最後にそう詫びると、カイトはグラスの水を一気に呷る。
慣れないことをしたせいで、喉はからからに干上がっていた。

「……カイトが謝ることはないわ」
メイコはほとんど表情を変えず、ほんの少し葡萄酒を舐めた。
目で窺うと、長い瞬きで応え、ゆっくりと口を開く。

「私ね、カイトのことが好き」
「……っ!」
その一言に彼は大いに動揺した。
こんな話を聞かされて平然としているメイコが信じられなかった。

「お、れが、可哀想だから、そんなこと」
「同情なんかじゃないわ。あなたを助けて、一緒に過ごして、暮らしていく中でいつの間にか好きになってたの」
「俺が、怖い?」
「怖くない! 本当よ。カイトはいつも物静かで、頭が良くて、気が利いて、私の事大切に扱ってくれたわ」
違う……、気配を殺して、悪知恵を働かせて、危険を察知しながら惨めに生き延びてきただけだ。
「メイコは、俺が初めて大事にしたいと思った人だ。なのに……」
「仕方ないわよ」
握り締め、爪が掌に食い込んだ拳にメイコがそっと手を重ねる。
「あなたとこれからも一緒に暮らしていきたかった。だけど、それが叶わないのなら、明日私がここに来るのは、私の願いでもあると思うの」
穏やかに語りかける彼女の言葉は本心に違いなかった。
だが、あまりにもうまくいきすぎている、とカイトは混乱し訝しんだ。
聞いたこともないようなおぞましい身の上話を聞かされて、それでもカイトの提案を受けようという女がこの世にいるだろうか。
それはきっと人ではなく、昔教会の掃除夫をしていた時に毎朝強制的に耳に入ってくる説教に出てきた聖母様なのではないだろうか。

「カイト、今日はもう寝ましょう。明日は忙しいんだから」
メイコは燭台を持ち、床に就く支度を始めていた。
「カイトってば」
促されるまま席を立ったはいいものの、俯いたまま動かないカイトにメイコはため息をつき、背後から近づき――。
ぎゅうっと腰に腕を回して抱き着いた。
「ん、ええっ!?」
「明り、もう消しちゃうからね。寝るよ?」
カイトがこくこくと頷くのを見て満足したメイコはすんなり離れると、寝台に上がり布団を被った。
ぎくしゃくと自身の寝床に入ったカイトは、蝋燭の炎を吹き消した後も、しばらく動悸が収まらず眠りに就くのに苦労した。
今日という日がこんな形で幕を閉じるとは思いもよらず、メイコの規則正しい寝息に理不尽さを覚えつつ夜は更けていく。


翌朝、メイコは早朝に納屋を出、村へ用事を済ませに行った。
カイトはいつも通りに猟銃の手入れをし、井戸へ出かけ、部屋の掃除をする。
やることがなくなると、昨夜の感触を思い出し、ぼうっと余韻に浸る。
メイコはよくカイトに触れてくる。
打ち解けてからは一層機会も増えた。
彼の手や頬に触れ、袖を引き、背伸びをして青い髪を撫でる。
カイトはいつもメイコの手を心待ちにしていた。
だが、それ以上はなかった。
ないものだと思い込んでいた。
メイコの腕と頬と胸とお腹が丸ごと触れて来るなんて。
カイトが話をしたことで、メイコにも変化が訪れたのだろうか。
「……メイコ、俺の事、好き……って」
思い返してみると、陶酔感が全身を駆け巡る。
しかしにべもなく言い放ったということは、メイコにとってそれは当たり前の事だったのだろうか。
カイトの事を好きだから、犯した罪に言及することもなく、カイトを怖れることもなく、擁してくれたのだろうか。
それとも。
「別れの、挨拶?」
口に出して、彼は頭を殴られるような衝撃を受けた。
考えてみればありえない話ではない。
一方的に懐いて恋慕して依存していたのはカイトの側で、メイコはただカイトの事を気に入っていた程度の関係だった可能性もある。
村に帰れば交流のある親しい人はたくさんいて、しかもカイトより付き合いも長い。
何より年頃で器量もよい彼女に恋心を寄せている男は大勢いるはずで、その中にメイコの思い人がいないと言い切れる方がおかしい。
男と同じ部屋で寝泊まりしているのに、メイコはいつも平然としていた。
まともな人付き合いのないカイトも、昨夜のようなことがあるとさすがに動揺してしまったほどなのに。

約束を、した。
メイコは今日ここへ来る。
だけど時間までは約束していない。
支度ができたら、と彼女は言った。
メイコの村での暮らしをカイトは知らない。
だから、どれほどの時間がかかるのか、彼は知らない。
こうしている間にも、扉が開くかもしれない。
日が落ち、夜が更け、空が白み始めても、来ないかもしれない。
こんな不安な時間を過ごすくらいなら、何も説明せずいつも通りの生活を続ければよかったかもしれない。
メイコに黙っているのは公平ではない、いつかは打ち明けるべきだと考えていたのは間違いではなかったと思いたいけど……。

ああでもないこうでもない、と懊悩している間にも時間は過ぎ、昼食を摂り、薪を割り、屋根の修繕をしているうちに日も傾いてきた。
茫とする時間も増え、仕事が手につかなくなった頃、ようやくメイコは帰ってきた。

「ごめんね、遅くなって」
その声の懐かしさに、愛しさに目が潤みそうになる。
「いや、大丈夫だよ」
顔をそむけて返事をすると、彼女は持ってきた荷物を寝台の上に広げ始める。
「そのまま、しばらくむこうを向いていてね」
「う、うん」
事情が呑み込めないまま、扉の方に目を向けていると、何やら衣擦れの音が聞こえて来た。

「もういいよ」
しばらくして掛けられた声に振り返ると、カイトははっと息を飲んだ。
「メイコ……、すごく、綺麗だ」
いつものエプロンドレスでやってきたメイコは、裾が長くて広がっている質の良いドレスに着替えていた。
顔に薄く化粧をし、唇には紅が引かれている。
襟ぐりや裾に細かい刺繍が施された赤いドレスは、メイコの茶色い髪や眼とよく調和が取れていた。
「母の遺してくれたものよ。父の遺言で、ずっと大切にとっておいたの」
肩口を撫でるその繊細な手つきと視線で、大事な晴れ着だと分かった。
きっと、メイコの母親が結婚式の際に用いたドレスなのだろう。
もやもやと思い悩んでいたわだかまりが消えていった。
意義深い形見のドレスを着てここに居るということ、それはカイトのためだけに準備されたものだということだ。

「ちゃんと来てくれたんだ。逃げられたのかと思って、俺……」
「そんな訳ないでしょう。約束したんだから」
苦笑するメイコに、よかった、と安堵のため息を吐く。
「もしそんなことになってたら、怖い思いをさせたかもしれない。絶対に、逃がさないつもりだったから」
「私、意外と愛されてたのね」
彼女はあけすけに笑った。
驚くほど平静な態度で。
それは、カイトの方が不安を堪え切れない顔をしていたからだ。
「メイ、コ」
視界が歪む。
熱い雫がぱたぱたと零れ、途中から彼女の指に拭い取られる。
「泣かないで」
柔らかく耳朶を打つその声をもっと近くで聴きたくて、背中をすくった。
あの夏の夜とは違って、そのまま抱き寄せることに成功した。
「私はきっと、あなたにこうされたいと望んだの」
「……いいのか。本当に」
腕の中に閉じ込めたメイコの柔らかさに、感傷は鳴りをひそめ、暴れ狂う本能が剥き出しになってくる。
もうすぐ自分は変わってしまう。
そうなってしまう前に、束の間の悦びを共有したい。
もう逃がせないからな、と低く抑えた声で問うと、はい、と小さく答えたメイコはカイトの胸に額をこつんとぶつけた。


さらさらの髪をぎこちなく撫でると、ふわりと花の香りが漂う。
バラの香水をつけてきたのだろう。
メイコ自身の香りと混ざり合い、上質な媚薬めいたそれは脳を奥からじりじりと焼いていく。
細い顎に強張った指をかけ、できるだけ優しく上を向かせた。
薄く目を閉じたメイコの唇に、自分のそれをかすめるように軽く重ねる。
こんなにも柔く張りがあるものなのかと、驚く。
かさついた男のものとは似てもつかない。
メイコは慄くように身を固くしている。
震える長い睫毛が男の庇護欲を掻き立てた。
慣れていないのだ、お互いに。

今度はもう少し強く唇を押し付けてみた。
んっ、と鼻に抜ける声が理性をガリガリ削っていく。
小さな舌がカイトの唇をこわごわといった感じでつついてきたのには驚いたが、同じように舌を触れ合わせてみると、唇を合わせた以上の快感で心臓がでたらめな速さで脈を打つ。
知らなかった感情が次々に生まれ、積み重なっていく。
この手の中に収めた彼女が愛しくてたまらない。
今さえあればもう何もいらないとまで思えた。
いつの間にかメイコの両腕はカイトの背に回り、華奢な指先が必死にシャツを掴みしがみついている。
昨夜背後から抱きつかれた時よりもずっと長く、ずっと必死だった。
息が続かなくなり、唇を離したのを切っ掛けに、カイトもメイコをぎゅうぎゅうに抱き締め、首筋に顔をうずめる。
「メイコ、俺、どこか、狂ってるの、かな。メイコに、今から酷いこと、するのに、今、すごく、嬉しいんだ」
「おかしく、ないよ。私だって、酷いこと、されちゃうのに、全然、怖くないの」
二人とも息を切らしたままで、零れ落ちた唾液が服に染みを作って、メイコの口紅がカイトに少し移って、それがひどく生々しくて。
だけど、二人は倖せだった。
快楽に膿む脳の片隅で、忘れてはいけないことを思い出す。
この赤いドレスはメイコの大切なものだ。
常ならばすぐに引き裂いてしまうけれど、できるだけ大事にとっておいてあげよう。
できるだけ。



***
一年近く暮らしてきた小さな住処で、カイトは熱が失われていくメイコの身体を抱き続けていた。
床に広がるメイコの命だった赤は徐々に黒ずんできたが、彼女に触れる掌に纏わり付く液体は、彼の体温でまだ温かかった。
こんなに汚すつもりはなかったのに。
ごめん。
謝罪の言葉を囁きつつも、その色に魅了されている自分がいた。
明るくて、美しくて、温かくて、まるでメイコそのものだ。
この血が欲しい。
触れた部分から、掌から、俺の身体に染み込んでいけばいいのに。
いつまでも浸した手を離せない理由だった。

これまではすぐに場を立ち去っていた。
獲物を仕留めたその一瞬に、彼の心は満たされる。
死体の処理だとか、逃げる手筈を整える段階になると、薬が切れたかのように暗澹とした気分に苛まれ、時に嘔吐しながら浅はかな自分を呪うこともあった。
だが、彼女は違う。
排除する必要があった者とも、名前も素性も知らないが狂気を満たすために手に掛けた者とも違う。
独占欲のために殺めた、最初でおそらく最後の想い人。
メイコは死してなおカイトを惹きつけ、手放すのを躊躇われた。
高揚していた気分は徐々に深い喪失感に変わりつつある。
自死を選ぶことは何故かできなかった。
本能的に不可能な選択なのかもしれない。
その代わりになのか、逃げる気力も出ない。
間接的に、緩やかに死んでいくと分かっていても。

薄く開いた唇にもう一度キスを落とした。
緩く閉じられた瞼は温和な寝顔のようで、美しかった。
何度唇を重ねても、御伽噺のように目を開くことはない。
仄かな鉄の味が舌に纏わりつくだけ。

終わったのだ、と認めなければならない。
他ならぬ自分が、彼女の命をこの手で終わらせたのだ、と。
動きすぎた脳も身体も急激に疲労を訴え、休息を求めていた。
彼は彼女を抱いたまま、静かに目を閉じた。
人々の喧騒も、森を駆ける足音も、遠くからかすかに聞こえてくる雑音だった。



「お姉ちゃん! お姉ちゃん! わたしだよ、ミクだよ! やっと見つけたの、一緒に暮らせるんだよ! 今度はわたしがお姉ちゃんを助けてあげられるから、一緒に行こうよ、ねえお姉ちゃ」



***
これが彼女と彼の物語のすべてだ。
齢8年と半年だったカイトがメイコという名の愛しい人と出逢って別れるまでの物語。
彼の人生の意義の大半を占めた物語。
この先の出来事には何の意味もない。
暗い部屋に閉じ込められてどれだけの時間が経とうが、これから先何が起ころうが、もうどうでもいい。

ただ一つ。

彼女の言葉を信じるのならば、彼には最後の役目がある。

その日が来るまで、カイトは死なないまま息を続け、思い出を無限に繰り返す。
何度も。
何度も何度も何度でも。

泣かないで、と彼女は言った。
他の人と少し違うだけ、と宥め、ただそれだけ、と笑って逝った。


ようやく訪れたその時は、始まりの日と同じく冬の凍える季節だった。



***
裸足で歩かされる石畳は足の裏の皮が剥がれそうに冷え切っていたが、萎えた脚は痛みを感じることができないほど脆く、必然的に掴まれた首の鎖によって引きずられるように前に進むことになる
。 薄暗い通路は視界を灰色に染め、まるでメイコに手を引かれてあの懐かしい小屋へ戻る森の道を錯覚させた。
扉が開かれ、久しく浴びていなかった陽光に濁った眼が灼かれる。
そこはかつて彼女と訪れた村の広場だった。
大勢の人がひしめき合い、どうやら自分に注目しているようだ。

「人殺し! お姉ちゃんを返してよ!」
その長い髪と殺意の籠った目に見覚えがあった。
あどけない顔つきをしていた幼い少女は、彼女とよく似た、しかし彼女よりも老いを感じさせるくたびれたエプロンを身にまとい、乳飲み子を二人抱えていた。
自分は彼女との思い出をどれほどの時間をかけて、幾重にも脳裏で再生していたのだろう。
かつて収穫祭で飾られていた鋭利な女神の彫像は、風雨に打たれすっかり色あせ、輪郭を丸めていた。

役人が傍で声を張り上げている。
その言葉は意味を成して耳に入ることはない。
いくつも、いくつも、群衆から石礫が飛んでくる。
在りし日に、空を横切る鳥を鋭く捉えていた眼差しも、低木の間を駆ける獣を追った身体も、今は弛緩し石に打たれるがまま。

顔を覆った若い母親が、わっと泣き崩れる姿も、呪詛の言葉を吐き続ける民衆も、彼の眼には何一つ映らなかった。
彼はひたすら空を見上げていた。
絞首台に上がるその時も、鉄の鎖を麻縄にかけ換えられる時も、碧空の色を瞳に溶かし、約束を呟いていた。

やがて祝福の鐘が鳴り響く。
民衆を殺人鬼から解放する平和の鐘であり、彼の魂を解き放つ安寧の鐘だった。
柔らかなその音色は男の耳を優しく浸し、脳裏に浮かぶ最愛の娘がこちらを振り向き、笑った口元が見えた。

「今、会いに行くよ」

その顔を思い出す前に、彼の意識は空に抱かれ、二度と肉体に戻ることはなかった。



***
「――憐れな」
人々が去り、誰もいなくなった広場には、罪人と、その死体を見上げる一人の修道女の姿だけが在った。
「お前の罪は未来永劫決して許されることはないでしょう」
その女は厳粛な、しかし慈悲の心を持った静かな声で語りかける。
吊るされたその魂の抜け殻は、辛うじてひとの形をしてはいたが、垂れ下がる大きなふさふさとした獣の尾と、鋭く尖った爪と牙は、醜い異形の存在を際立たせていた。
「けれど、お前が地獄に堕ちるまでのほんの僅かな時間に、お前を愛した者と煉獄で再会することは許されるかもしれません」
くすんだ青い男の髪や獣の尖った耳が雪混じりの風に揺れる。
風が運んできた雲の隙間から星が見え始めていた。
新月の晩は暗く、男に一片の月明かりも注がれることはない。
だが、彼はもう月に狂わされることはない。
月に懺悔し縋ることもない。

「私は、唯このことを語り継ぎましょう」

修道女は広場を去った。
残された獣人の亡骸は、明日には村の外れに埋められてしまうだろう。
されど、内から外から監視され続けた生から解放され眠りについた彼は、安心しきった笑みすら浮かべていた。
だから、これは幸せな物語。
彼と彼女のとても、とても幸せな物語。





END


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